ミシガン州に住んで丸8年。5年前にデトロイト市内に引っ越しました。デトロイトのことや、自分のこと、大好きなマライアのことなどについてのブログです。(photo by nasa)


by dice_michigan
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1998年、22歳

大学生活も最後の年になり、いよいよ卒業後の進路を決めなければならないときが来た。とりあえずまわりの流れに合わせるようにインターンシップや就職活動をすることにしてみた。インターンシップをやったのは某英会話学校の教室で、英会話学校の実態を覗くいい機会だった。その時は「普通のつまらないサラリーマンになるのなんて絶対嫌。自分にはこの職業がぴったりなんだ」と自分に言い聞かせていたが、今になって思うと「本当にこれが自分のやりたいことなのか?」と最後まで自問自答していた気がする。夜間や週末も仕事で、地方への転勤もありなんていう、労働環境としてはあまりよくない条件だった。そういう迷いが現れてしまったのか、結局いくつか受けた英会話学校も最終面接で落とされてしまった。

英会話学校の他にも、当時の学生たちの憧れの職業だった、PWCなどの外資系コンサルタント業界や、IBMなどの外資系IT業界などの会社も受けてみた。でも「なんとなくかっこよさそう」という程度の憧れではもちろん雇ってもらえるわけもなく、結局「自分が本当にやりたいこと」を就職に結びつけることができずに、就職活動は完全に行き詰まってしまった。

そんなことをしている間、Dは1年間の出張を終え祖国へ帰国する時期がやってきた。期間限定の出張であることは分かっていたが、帰国直前になるとやはり悲しくてお互い胸が張り裂けそうな気分だった。いろいろと理由はあったが、「帰国後は付き合いをやめよう」とお互い合意して、最後に二人だけで旅行に行って関係を終わらせることにした。

それから数ヶ月間、上に書いたように就職活動をしながらも「心はここにあらず」という感じで、絶えずアメリカに行ってDと一緒になることを考えていた。向こうも僕への思いを断ち切れなかったようで、もはや僕らは離れ離れになることなど考えられないような関係へ発展していたのだった。

アメリカに行く場合、唯一考えられる選択肢は「留学」だった。海外在住経験が皆無の僕にとって、ずっと憧れだった留学。「私はアメリカの大学院を卒業して…」なんて一度でもいいから言ってみたかった。「就職もうまくいかないし、Dと一緒になりたいし、これは留学するっきゃないでしょー」と決意を固め、意を決して両親に相談することにした。

この頃両親は僕に対して非常にヤキモキしていたようで、「あの子は就職もできずに何をやっているんだ」状態。そんなところに「あのー、僕にはアメリカ人の彼氏がいて、そのー、留学して一緒に住もうかなー、なんて思ってるんだけど」なんて言ったもんだから、「こいつは何ばかげた事言ってるんだ、ボケ」状態へ発展。ついには一生に一度しか記憶にない家族会議なども開かれ、結果として両親はしぶしぶ留学をサポートすることに合意してくれた。お父さん、お母さん、苦しい決断だったと思うけど、本当に感謝してます。ありがとう。

こうして、一歩間違えれば就職浪人、プー太郎、ニート、引きこもりなどになりかねなかった僕が、ようやく「留学」という目標を定めることができたのだった。早速翌年あたまの申し込み期限に向けて、いろいろな大学のプログラムを調べたりと、留学の準備を始めた。

そして、卒業までにいろいろなことをやっておきたいという気持ちから、いくつかアルバイトもしてみることにした。まずは短期間だけコンビニでバイト。ずっと興味があった小売業界の流れを学ぶことができておもしろかった。お客様に「いらっしゃいませー」とすがすがしく挨拶したり、商品の陳列の仕方やレジの取り扱いを学ぶなど、一度は経験してみる価値があった。売れ残りのお弁当やおでんなども持ち帰れることがさらにうれしかった。

続いては、国際交流団体でのバイトも始めた。今まではボランティアとして働いていたが、バイトとしてオフィスの事務的なこと(生徒の申込書、ビザ手続き、ホストファミリー・ボランティア情報の管理など)を手伝うことになった。これもなかなか楽しい仕事で、社会人の常識(手紙の書き方、電話のかけ方、etc.)なども勉強になったし、組織のなりたちや上下関係なども学べるいい機会だった。始めは下っ端の雑用が多かったが、「こうやってオフィスで仕事するのも楽しいかも」なんて思い始めていた時期だった。

僕にとっては激動の一年がようやく終わり、翌年はいよいよ大学卒業、そして留学が始まる。
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by dice_michigan | 2005-02-27 22:24 | 自分史

1997年、21歳

大学時代の中で一番輝いていた1年だった。今でもこの頃の積極性や行動力を忘れないようにしている。

まずは1月に、Dが1年の長期出張で日本にやってきた。当時はまだ恋人の関係ではなかったのだが、次第にちょくちょく遊ぶ仲になっていった。週末は二丁目のクラブに行って踊り明かしたり、反対に平日はDが会社帰りに僕のアパートまで遊びに来てくれたり、時には彼の勤務地である川崎で同僚たちと一緒に飲んだり、気がつくと週に3-4日は一緒に過ごすような状態になっていた。そして、気づいた頃には二人は恋に落ち、もはや離れ離れになることなど考えられないところまで来ていたのだった。

決定的なイベントは、夏に出かけた栃木県の日光へのデート。中禅寺湖の足こぎボートの中で、「ああ、もう僕の人生にはこの人しかいないんだ」なんて高まる恋愛感情をお互いビビッと感じたようで、それ以来はさらに深い付き合いになっていった。

そんなルンルンの時期、再び夏の国際交流キャンプに参加した。今年は僕にとって2年目ということで、前回の改善点なども織り込んで、他のボランティアたちとも一緒に協力しながら、キャンプは大成功に終わった。

その後、シンガポールからこのキャンプに参加していた友人が1ヶ月ほど僕のアパートに滞在。夏休みの間はボランティア仲間や他の友達などと一緒に海水浴や花火に行ったり、箱根の温泉、東京、別の友人宅でバーベキュー、鎌倉など、いろいろなイベントや場所に足を運んでバケーションをエンジョイした。

鎌倉といえば、僕はこの頃家庭教師バイトもしていて、鎌倉に住む小学生に勉強を教えていたことがあった。短期間のバイトだったけど、生徒の相談に乗ってあげたり、時には勉強を中断して一緒に遊んだりと、楽しい思い出が残った。そして一番うれしかったのは、勉強の後お母さまお手製の夕食が出てきたこと。とっても料理の上手なお母さまで、毎週いろいろ凝ったものを食べさせてもらった。一人暮らしの身分には、家庭的な味がとても心にしみた。

学校の授業のほうは、この年からゼミが始まり、僕は外国語教授法を勉強することにした。昔から英語を勉強することが大好きだったということと、そして将来は英語を使った仕事がしたいということから選んだこのゼミ。教授の人柄やクラスメートの熱意にたくさんの影響を受けることができた。(Tamiちゃん、Spageさん、ちなみにこの教授はMIIS出身だったんですよ!)
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by dice_michigan | 2005-02-26 23:21 | 自分史

1996年、20歳

クラスメートに紹介されて、東京にある国際交流団体でボランティアを始めた。ここは主に高校生の交換留学や国際交流イベントを企画・運営する団体なのだが、ボランティアとしての役割は、日本を訪問する留学生のいろいろなお手伝い。空港で到着する留学生をお迎えしてホテルまで送り届けたり、東京観光に連れて行ったりといった仕事をたびたびするようになった。生の英語を実践するにはうってつけの機会だったし、スケジュールを立てて、グループを誘導して、なんていう添乗員のようなスキルも磨くことができた。いろいろな地域から来た人たちとの出会いも楽しかった。

夏になると、この団体主催の国際交流キャンプにグループリーダーとして参加。日本・外国の高校生たちと一緒に、ワークショップ、バーベキュー、ハイキング、ゲームなどを通じて国際交流を図るイベントのお手伝いをした。ボランティア仲間やスタッフとはキャンプの前に毎週のように集まって、ゲームを企画したり、リーダーとしての心得などを話し合ったりして、たくさんのことを勉強できた。このときに一緒に仕事をした仲間とは、キャンプが終わったあとも毎月のように会って遊んだりして、たくさんの思い出ができた。彼らは今でも大切な友達だ。

そしてこの年はDと出会った記念的な年でもあった。詳細はここを見てね。この年彼は夏の間1ヶ月だけしか日本にいなかったけど、アメリカに帰国してからも毎日のように日米間でメールをやりとりしていた。Dは僕が初めて出会ったOpenly Gay Personだったのだ。友達だけでなく、会社にも、家族にも、近所にも自分がゲイであることをオープンにしている彼は、僕にとっては結構衝撃で、「そんな生き方もあるんだー」と感心していた。

そんな当時の僕は、友達や姉達にはオープンにしていたけど、両親には秘密にしていたし、それ以外にも「自分がゲイなんて、あまりおおっぴろげにするようなものではない」という恥のような気持ちがあったことは否めない。あまり親しくないクラスメートと話をしていて、「彼氏」を「彼女」に置き換えて話をしたりして、後になって自己嫌悪に陥ったりしたこともあった。そんな僕だったが、Dと話をしてDの生き方を聞いているだけで勇気がわいたし、恥の意識も薄らいでいった気がした。

うちの大学の英語教授にもOpenly Gayな人がいて、彼の授業を取る生徒達の間では「あの先生ゲイなんだってー」とか噂されていた。だからといって、「あのー、僕もゲイなんですー」なんて彼に打ち明ける機会もなく、しばらく時間が過ぎていった。ところがある日、ひょんなことからカミングアウトをすることになった。

当時の英語のクラスメートの中に、悪魔を崇拝しているようなすごく変わった人がいて、ある日の飲み会で僕がゲイと知った彼女は僕にストーカーのようにつきまとうようになった。はっきり嫌がらせをされたわけではないのだけど、なんとなくいつも陰で監視されているような気がした。少し怖くなった僕は英語棟に駆け込み、担当の先生に相談した。その時の状況を先生に説明するついでにカミングアウトをしたというわけだ。先生(女性)は始め驚いた様子だったが、すぐに「実は私もバイなのよ」と打ち明けてくれた。それから芋づる式にGLBTの講師陣に紹介してもらい、噂されていたゲイの教授とも知り合いになった。

それ以来、僕と英語科の付き合いが始まった。ちょくちょく先生達のオフィスに遊びに行って、おしゃべりをしたり、ゲイスタディーズの論文や本、ビデオなどを貸してもらうことができ、授業でもゲイなどのマイノリティーの話がトピックになることが多く、学期末のレポートの題材にしたり、クラスメートとディスカッションをしたり、何だかまるで自分が禁断の裏社会から表舞台に躍り出た気がして気分がよかった(これもカミングアウトの一種かな)。

先生達にとっても、僕みたいにカミングアウトをしている学生は珍しかったらしく、卒業までいろいろと相談に乗ってくれたり、週末家に招待してくれたりと、親身になって世話をしてもらうことができた。これが大学生活で一番ラッキーなことだったかもしれない。

そんな先生達への憧れから、「自分も英語教師になりたい」なんて思っていた時期だった。
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by dice_michigan | 2005-02-23 08:40 | 自分史

1995年、19歳

「4年間自宅から通学する」という約束で親に進学を許してもらったこの学部。でも自宅であるS玉県からキャンパスのある神奈川県郊外までは片道3時間かかる距離だ。1学期間だけ通学したが、1限目があるときは朝6時発、6限目が終わって軽くサークル活動をして家に帰る頃には終電間近という生活は、かなり無理があった。結局1学期目が終わってから、親に「一人暮らしさせてー」と懇願(この辺は末っ子甘え上手の得意なところ)。大学の近くにアパートを借りることになった。

夏休みの間アパート探しをして、行き当たったのが駅近くの木造おんぼろアパート。6畳のリビングと3畳の寝室、そしてキッチン、トイレ、お風呂がついて、家賃4万2千円也。この広さでこの値段はかなり格安感があった(ちなみに他の学生たちは新しめのワンルーム賃貸マンションで、6万円近く払って住んでいた)。そして秋学期から僕の一人暮らしが始まったのだ。

初めての一人暮らしは気楽なもので楽しかった。アパートでは好きなテレビを見て、好きな音楽を聴いて、好きなときに寝て、好きなものを食べて、などなど、自由な生活を堪能することができた。

自転車で行ける距離に湘南の海や江ノ島なんかがあったのも、海なし県で育った僕には格別の待遇だった。週末になるごとに海に行って波の音を聴いたり、一人物思いにふけることができた。時々は地元S玉県の友達や家族がはるばる遊びに来てくれたりして、家で飲み明かしたりして楽しく過ごした。

大学の授業は予想通りの大変さ。しかも回りはほとんど大学受験を突破してきた優秀な人たちばかりで、やる気も満々。高校と違って、このキャンパスはやる気に満ちた人たちであふれかえった活気のあるところだった。自分から望んでそういうところを選んだのだが、peer pressureと付属校上がりというコンプレックスで最初は自信がなくて消極的な自分だった。それでもいろいろとおもしろい授業があって、刺激的な1年間だった。

秋学期からは外国語の授業もスタート。うちの学部の第一外国語は選択式で、英語だけでなく好きな言語を選べるシステムになっていた。でも僕は迷わず英語を選択。クラス分けのために初めて受けたTOEFLでは550点という予想以上の得点を取り、僕は上から2番目のクラスに入ることになった。クラスメートは僕ともう一人の学生以外全員帰国子女。「私はXX国にX年間住んでいて、」なんていうみんなの自己紹介を聞いていると、「超かっこいい!」とひたすらうらやましく思える僕だった。

他の学生も関東以外の各地からやってきた人が多く、沖縄、九州、四国、関西出身の友達ができた(不思議なことに、僕の周りではあまり北のほうから来たと言う人はいなかった)。また、数は多くなかったが留学生の姿もちらほら見受けられ、モンゴルから来た、なんていう人もいた。いろいろなバックグランドの人が集った、おもしろい集団だった。

教授陣も個性的な人が多く、おそらく一番有名なのは平ちゃんこと竹中平蔵教授(当時)だっただろう。彼が教鞭を振るった経済学は、訳の分からない公式ばかりで僕はさっぱり分からなかったのだが、他の学生たちには人気の授業だった。
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by dice_michigan | 2005-02-22 12:10 | 自分史

#1's (1998)

b0023611_10425981.jpgマライアのシングルは全米ナンバーワンに輝いたものが多く、数で言うとビートルズ、エルビスに次いで3番目の記録だ。で、それらのナンバーワンの曲を集めて出したのが、長ーい素足を強調したジャケ写が印象的なこのアルバム。ナンバーワン曲の中での僕のお気に入りは、Vision of Love, Love Takes Time, Emotions, Fantasy, Honeyかな。つきなみだね。

ボーナストラックもいくつか収録されていて、特に日本版はダイアナロスの貴重なカバー曲も入っていたりしてお得。一番の話題曲はなんと言っても、ホイットニーヒューストンとのデュエットであるWhen You Believe。でも二人の大スターが共演した世紀のコラボレーションという割には、地味ヒットで終わったのが残念。ちょっと選曲が悪かったかしらね。

Jermaine Dupriとのコラボレート曲であるSweetheartは、ヒットこそしなかったが、なかなかお洒落でかわいい曲だ。Brenda K StarのI Still Believeのカバーは、マライアが元々Brendaのバックアップシンガーとして仕事をしていた時期を思い出して、「原点に戻って」という感じでレコーディングされたようだ。なかなか好感を誘う企画じゃないの。余談になるが、実はこのリミックスであるI Still Believe/Pure Imagination(プロデュースはDamizza)がマライアのリミックスの中で僕が一番好きなリミックスである。(後に発売されるリミックス集に収録されなかったのが残念!)

ちょうどこの頃は、ソニーミュージックさんのプロモーションにも力が入っていて、ある日タワレコ渋谷店前では「マライアクイズコンテスト」なるものが開催されていた。ファン友達と出場し、圧倒的な強さで勝利をしたときは、マライアファンとしての冥利に尽きる気分だった。他の参加者が悔しがって「あなたたちもしかして関係者ですか?」なんて勘ぐりはじめたが、「悪いけど君たちとは『マライアのこと好き!』のレベルが違うんだと思うよ」と心の中で高らかに笑っていた僕らだった(アブない?)。
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by dice_michigan | 2005-02-22 10:47 | マライア

1994年、18歳

高校最後の年は、特に大きなイベントもなく、割と退屈な年だったかも。選択科目ではフランス語を取って、1年間必死で勉強したけど、フランス人の友達がいなかったので練習する機会もなく、すぐに忘れてしまった。

勉強と言えば、一つだけ今でも時々思い出す出来事が。それは期末テスト期間中。一夜漬けの勉強をしすぎてかなり体力的にも精神的にも疲れきっていたときだった。帰りの電車を待つホームで、ふとある考えがよぎった。「ホームに飛び込んじゃおうかな」。そうすればこの期末試験の勉強もしなくて済むし、みたいな短絡的な考えで、もちろん実行に移すことはなかったのだが、その時はそんな風に思ってしまったほど疲れていたのかな。

そういえば、何かに行き詰ったときには「ノストラダムスの予言にあるように、どうせ1999年には世界は滅びるのだから努力したって意味ないじゃん」と投げやりな気持ちでいた記憶がある。何だかあの頃はすさんでいたなぁ。

さて、話は変わって、高校の間は文通にも凝っていて、雑誌やマライアのファンクラブを通じて知りあった日本や世界各国のファンたちと手紙や音楽テープの交換などをしていた。そんな経験から、生の英語にも触れる機会が増え、また「海外に行ってみたい」という欲求も膨らむことになった。

昔から手紙を書くことは好きだった。作文や論文を書くのはすごく苦手だったが、手紙となると話は別。共通の趣味を持つ友達と、好きなことについて書き合うことができて、しかも電話や面と向かって話すのと違って、自分の好きな時間に好きなだけの量を書くことができる手紙と言うメディアが大好きだ。ブログや日記でも、読者である友達をイメージして書くことが多いのも、その表れかな。

卒業間近になり、自分の進学先の学部を決めるときになって、やっぱり何か人とは違うことがしたい僕は、割と新しくできたばかりの学部に進学することを決意した。そこは授業の進め方や成績のつけ方などがかなり厳しいという噂のところだった。今までになかった新しい学部ということで世間も注目していて、大学入試で入ってくる人たちは超頭のいい人たちばかり、帰国子女も多数入ってくるという、何だかすごそうなところだった。「そんなところに行ってしまって、ついていけるかな」と少し不安だったけど、高校3年間は遊び暮らしてしまったので、次はちょっと厳しい環境に自分を置いて鍛えてみようという気持ちがあったのだと思う。

そして、無事高校卒業。高校の3年間はそれなりに楽しかったのだが、受験などの目標も失ってしまってたくさんの時間を浪費してしまった気がする。まあ、充電期間ということで、こうやってのんびりできたのもいいことなのかもしれないが。たるんだ生活を送っていたせいか、高校時代の友人というのは卒業後すぐにほとんど連絡を取らなくなってしまった。やっぱり目標を持って生きていくほうが、自分にも周りにもいい刺激になっていいことなんだなー、と改めて思う。

一緒に3年間勉強した同級生たちは、東京から来ている人もたくさんいて、住所録を見ては素敵なところに住んでいる人たちがすごくうらやましい気持ちになったものだ。小中から付属校上がりの人たちは、甘やかされたおぼっちゃんもいたがやっぱりそれなりに育ちのいい人が多く、なんとなく洗練されたオーラを放っていた。そんな人たちと一緒に勉強できたのはなかなかいい経験だった。

卒業旅行では、ワシントン州の友達を訪ねて初めての海外旅行。シアトルタコマ空港に降り立ったときは、「車が反対車線を走ってるー」だの、「家がでかいー」とか、「高速広いー」なんて、海外超初心者の新鮮な驚きがあっておもしろかった。食べ盛りのころで、ファーストフードで1ドルで巨大なハンバーガーが食べられることにも感動(ただし従業員の英語は速くて、「For here or to go?」すら聞き取れないという情けない状況だった)。だだっ広いスーパーやモールでは何でも安い値段で手に入れることができて、これからしばらく「アメリカ大好き!」の気分が続くことになる。
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by dice_michigan | 2005-02-20 15:07 | 自分史

1993年、17歳

そろそろみんな性の目覚めも済んで、「実は僕も男が好きなんだ」なんていう同級生がちらほら現れ始めた。「へー、男が好きなのは僕だけじゃなかったんだ」と、仲間を発見できて喜ぶ僕。そしてその中の一人に、生まれて初めて二丁目に連れて行ってもらった。

新宿二丁目は、説明するまでもなく、ゲイバーやショップ、クラブなどが所狭しと立ち並ぶ東京のゲイのメッカ。今までゲイの知り合いがほんの一握りしかいなかった僕にとっては、町中にあふれるゲイたちの姿を見て、「えっ、東京にもこんなにいたの?」と改めてびっくり。二丁目は確かにそれっぽい人から、見た目では全然ゲイと分からないような人まで、多種多様な人たちがあふれる活気ある町だった(ただし昼間はガラーンとしているのだけど)。

お金もそれほどなかったので、とりあえず本屋さんで立ち読みしたり、ぶらぶら散歩したりして過ごしたが、時々は年上のお兄さんたちにナンパされてお酒や食事をおごってもらったりした(今で言う援交?交際はしてなかったけどさ)。そして、その後初彼もゲットして、ウキウキの時期だった。なんだか高校生の分際でもうバーに通い始めたりして、ちょっと大人の世界を垣間見た気分だった(最近の若者は出会い系とかを駆使してかなり進んでるみたいだけど…なんて書くと自分がすごく年寄りのような気がする)。この頃から外国人に興味があって、外専の道を突き進んでいたのだった。

なーんて遊び歩くうちに、成績はますます低迷。「これじゃちょっとやばいかな」なんて思って、予備校に通ってみることにした。別に大学受験をするつもりはなかったけど、なんとなく周りの雰囲気に影響を受けて勉強するようになるかな、と。それに校舎が池袋だったので、ついでに遊びに行くのも便利だし。週末も「予備校の自習室に言って勉強してくる」なんて言って、実は勉強していたのはほんのわずかな時間で、その後は遊びに行ったりしていた。

予備校では英数をとっていたが、英語のほうはそれなりに楽しくてためになったが、数学は全然ダメ。何が何だかさっぱり理解できないのだ。もともと数学は苦手意識が強く、受験のときも重点的に勉強していたのだけど、高校に入って1年サボっただけでこれほどまでに落ちこぼれてしまうとは…特に微分積分なんていうのが始まったあたりで、もう完全についていけなくなってしまった。

ちなみに試しに受けた模試では、自分が進学予定の大学への合格率はかなり低かった。フッ、こんなに頭が悪くなっても上に上がれるなんて、世の中って皮肉なものね(苦労して勉強している人ごめんなさい)。
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by dice_michigan | 2005-02-20 08:50 | 自分史

1992年、16歳

晴れて高校へ入学。学校は同じ県内とはいえ、電車を2回乗り継いで行かなくてはならず、通学時間も1時間ほどかかるところだった。当時は朝起きるのが苦手で、いつも電車の時間ギリギリに起きて大慌てで家を飛び出していた。この頃の体力や瞬発力は抜群で、ホームで全速力で走って乗り換えの電車に乗ったりしたものだ。でも運動不足・栄養不足・睡眠不足などがたたって、時々蒸し暑い電車の中で貧血気味になり、途中の駅で降りて休んだり、なんていうこともあった。思えば満員電車を毎日体験していたのはこの時くらいかもしれない。

もう運動部は飽きたから、っていうことでブラスバンド部に入学。クラリネットを担当することになった(正確に言うと「ブラスバンド」ではないね)。この部は大学の応援指導部と直結していて、大学野球やサッカー、ラグビーなどの試合にはたびたび駆り出されることになった。時々会う、大学生のお兄さん・お姉さんたちはみんな心優しい方ばかりで、とてもいい思い出になった。

うちの高校自体は一応街中にはあるのだが、元農業高校というバックグラウンドから、うちの大学の付属校の中でも「田舎にあるダサい学校」というイメージがあった(しょせんS玉県なんていつも馬鹿にされる運命なのよ)。

でも、S玉県民の庭である、東京の池袋までは電車で一本、30分以内で行けるという結構便利なところだった。この頃から、学校帰りに毎週のように池袋の輸入CD屋さんへ寄って、流行のCDなどを買い集めるようになった。当時は平均して月に5枚くらい買っていて、今の僕より羽振りがよかった(今なんて、年に5枚買うか買わないかくらいだもん)。

CDに注ぎ込むお小遣いは、塾の試験監督・採点のバイトで捻出した。これがなかなか楽な仕事で、試験中はテスト用紙を配布・回収するだけで、採点は一緒にバイトしていた友達と一緒に和気あいあいとおしゃべりしながら。バイトの後は他のバイト仲間とボーリングに行ったり、飲み会をしたり。そうそう、本格的に酒を飲み始めたのもこの頃からだった。他の高校生たちが受験勉強に明け暮れる中、僕らはのんきなものだった。

そしてバイトの先輩にタバコも勧められ、早くも喫煙者デビューを果たしてしまった。その当時は「大人っぽくてかっこいいかも」なんて思っていたのだが、今思うと大きな間違いだった。また、同じ時期にパチンコも始めるようになり、「オトナ」というよりも「オヤジ」路線を進んでいたのかも。

地元の小中学校では一応優等生として過ごしてきたけど、高校では回りも難しい受験をクリアしてきた頭のいい人ばかり。中には小学校から付属校出身で、勉強が全然ダメな人もいたけど。大学受験がないということから、僕自身も勉強をしなくなり学業のほうは低迷。いつも平均以下の成績だった。留年の危機にさらされることはなかったけど、学校でもあまりぱっとしない生徒という感じだった。「自由な校風」と謳う学校も、蓋を開けてみれば全体的にやる気のないしらけた学校で、教職員も適当にやっているような気がした。確かに自由な学校だったが、「やりたい人は勝手にやってー」という感じで、まじめに勉強する人ややる気に満ちた人にはあまりよろしくない環境だったと思う。

男子校ということで、変に女性に執着するような態度を見せる同級生たちにも違和感を感じ始めた時期だった。「男子校なんてゲイの天国のようなものでは?」と思うかもしれないが、意外とつまらないもんだ。

翌年はいよいよ二丁目デビューすることになる。
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by dice_michigan | 2005-02-20 01:50 | 自分史

Butterfly (1997)

b0023611_11473982.jpg僕にとって一番好きな、そして思い出深いアルバム、Butterfly。このアルバムがリリースされたときは大学3年生。大学の間で一番充実していた時期かもしれない。

この頃はDへの恋愛感情も高まるばかりで、そのような気持ちはファーストシングルである、Honeyに凝縮されていた感じだった。このHoneyのプロモビデオではマライアが女優業に挑戦、ちょっとした演技を見せて、「おおっ?」と思わせたものだ。そんなに名演ではなかったけど、マライアの新しい一面をみることができておもしろかった。新しい一面といえば、このころからセクシー路線を強調するようになり、またビデオやライブの中で踊り始めた時期でもあった。予想通りマライアの踊りはジェニロペやジャネットほどうまくないのだが、それでも珍しさも手伝って楽しかった(真似もしやすかったし…って真似してたのかい!?)。

b0023611_13111282.jpgこのアルバムの内容と、Dとの恋愛はシンクする部分が多い。ラブラブ真っ盛りの頃は、My AllとかFourth of July、Babydollなんていう歌がぴったりだった。その後僕らは理由あってしばらく別れることになったのだが、その時は愛する人を手放す歌であるButterflyが心にしみわたった。そのリミックスであるFly Awayも、当時クラブ通いを続けていた僕にとってはすごくかっこよくて、大好きな曲だった。

いよいよDがアメリカへ帰国直前になり、心の中は悲しさで一杯でも、友達の前では「僕は大丈夫だよ」みたいに無理して振舞う、まさにそんな気持ちを歌った曲、Breakdownを聴いては一人家で涙していたものだった。

毎回アルバムに含まれる恒例のカバー曲、今回はSisqo率いるR&BグループであるDru Hillをフィーチャーして、プリンスのカバーBeautiful Onesを採用。これは数あるマライアのカバー曲の中でもソウル色が強い、僕の好きな一曲だ。

そしてアルバムをしめくくる曲であるOutside。混血児として生まれ、ずっと世の中に対して疎外感を感じて生きてきたマライアの気持ちを正直に歌ったこの曲は、ゲイとして「自分は他の人とは違うんだ」と感じ続けてきた僕の胸に強く響き渡った。大スターであるマライアでもこんな劣等感を抱いて生きているなんて、共感すると同時に勇気付けられもした。

衣装はどんどん派手で開放的なものになっていくが、音楽性で言えばこの頃のマライアが一番成熟度が高かったような気がする。このアルバム、商業的には前作ほどの成功は収めなかったにしても、僕の人生にとっては一番大きな存在意義を持つアルバムだ。
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by dice_michigan | 2005-02-18 11:49 | マライア

How It All Started

今回は意外と知られていない(?)、Dと僕の馴れ初めからつきあいはじめた頃までを紹介。


この投稿は2002年5月1日にさるさる日記に掲載されたものです。

3rd Anniversary

何を隠そう今日は恋人Dと僕との3周年のアニバーサリー。3年前に何があったかって?その前に初めて知り合った頃からのいきさつを説明しよう。

Dと僕が知り合ったのはおよそ6年前の1996年。たまたま僕が運営していたウェブサイトをDが訪れ、メールをくれたのがきっかけ(注:別にエロサイトでも出会い系でもない)。始めはお互いがゲイだということすら知らなかった。しばらくは毎日のようにメールのやり取りをしていた。「すごく頭がよくて、物知りな人だ」というのが僕の彼に対する印象だった。

その頃彼はアメリカに住んでいたが、年に数回出張で日本に来ていた。そして96年の夏、ついに二人が出会う機会が訪れた。新宿駅前で待ち合わせて、イタリアンレストランで夕食を食べ、その後2丁目のゲイバーに行ってしばらく飲んだ記憶がある。その後も1ヶ月間彼が日本に滞在している間に花火大会や海水浴などに行った。でもその頃はあくまで友達としての付合いだった。

97年になると彼が仕事で1年間日本に住むことになった。1年が経つうちに二人の関係は急接近し、もはや離れ離れになることなど考えられない間柄になっていた。毎日のように逢っては一緒に幸せなときを過ごした。98年に彼は祖国アメリカに帰国、僕は彼の後を追いアメリカへ留学することを決意した。

そして3年前の99年の5月、僕の留学先が正式に決定し、二人でメキシコ旅行に出かけた。これがいわば僕らのハネムーン旅行であった。メキシコの美しい海辺で二人の愛情を確かめ合い(何だか照れる(^_^;))、5月1日を二人の記念日と決めたのだ。

去年のアニバーサリーはメキシコ旅行に行ったっけな。今年は卒業など他のイベントが控えているので、地元でおとなしく過ごすことにした。週末にお気に入りのレストランに行ってアニバーサリーディナーを食べる予定だ。

3年か。。。長いようで短かった。その間何度か困難に直面したけど、今でも二人で幸せに暮らしている。これからも末永くよろしくね>ダンナさん。
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by dice_michigan | 2005-02-17 11:26 | さるさるリサイクル