ミシガン州に住んで丸8年。5年前にデトロイト市内に引っ越しました。デトロイトのことや、自分のこと、大好きなマライアのことなどについてのブログです。(photo by nasa)


by dice_michigan
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

カテゴリ:自分史( 28 )

2005年、29歳

この年のキーワードは「安定」だったような気がする。前年の中ごろに共働きDINKS生活が始まって、財政的にも精神的にも安定。クレジットカードの残高も一時期一通り完済することができたし、お互い仕事を持って生活に適度な張り合いができたので、大きな葛藤や衝突などもなく充実した一年を過ごすことができた。

4月にはデトロイト市内に念願のロフトを購入した。購入手続きや住宅ローンなどでいざこざはあったが、晴れてロフトオーナーになってみると生活の質は格段に向上した。賃貸アパートに住んでいたころは「ここは一時的な住まい」という気がしていたが、不動産を購入すると「ここにはしばらくの間住むことになるんだ」というようなコミットメントをひしひしと感じて、それがさらなる安定感につながった気がした。

それからの数ヶ月間は、新しい家具を揃えたり、インテリアの内装を変えたりと楽しい日々が続いた。また、新居の周りを散歩したり、新しい友達と出会ったり、レストランやバーを開拓するのも楽しかった。それからはマイホーム貧乏のために大きな旅行には出かけられなかったが、時々はちょっとした小旅行(ボストン、トロント、オハイオ、ミシガン州内など)に出かけて息抜きをした。また、カナダとの国境へも近くなったので、ウィンザーへ行って飲茶を食べたりする機会も多かった。感謝祭はDの実家へ、年末には僕の実家へ里帰りして、それぞれの家族とも落ち着いた時間を過ごすことができた。

郊外からデトロイト市内に引っ越すということは僕らにとって意義深い人生の転換点で、期待していた通り、またはそれ以上の楽しみをデトロイトに見出すことができてとてもうれしい。僕にとって象徴的なイベントは、黒人教会へゴスペルコンサートに行ったこと。このおかげで今まで内側から見ることのなかったデトロイトの黒人コミュニティの世界を垣間見ることができた気がした。来年はさらにデトロイトのコミュニティと関われるような活動に参加できたらと思っている。

仕事の面では、5月には顧客オフィスへの出向期間を終えて自分の会社に戻った。顧客オフィスでのレジデントエンジニアとしての仕事も楽しかったが、その経験を生かして自分の会社で同僚や上司たちと一緒に仕事をしていくこともさらに楽しい毎日だった。また、レジデント時代に築いた顧客側の人脈も有効に利用することができた。自分の会社には僕と同年代の同僚が多くいるせいか、仲間意識を強く感じるようになって、それも安定感に結びついた。

この年の一番の収穫は、ブログなどを通じて出会った人たちかもしれない。1月に始めた自分のブログにもらった数々のコメントに励まされ、他の人のブログを読んで勇気付けられたり勉強になったり、また自分とは違う世界や土地に住んでいる人たちの生活ぶりを伺うのも興味深かった。今までつけていたオンライン日記はあくまで自分のための記録&身内や友達への連絡用として書いていたが、ブログに移行してからは見ず知らずの人にも楽しく読んでもらえるように気を配りながら書くことが多くなった。

年間を通してみると、特に大きな波風のない一年だった印象を受ける。でも逆に「このままでいいんだろうか?」というような、マンネリや自己満足感に対する不安や焦りが少しだけ顔を出したこともあったのだが…30歳になる来年はこの安定感を生かして、さらなる改善を目指そうと思う。
[PR]
by dice_michigan | 2006-01-16 09:12 | 自分史

2004年、28歳

年明け後から、再びDの不毛の求職活動が始まった。ミシガンではIT業界が縮小の傾向にあり、安い労働力があるインドなどへどんどん仕事が流れているようだった。しかもミシガンには製造業独特の特殊なIT業界があるらしく、他州からやってきて、ミシガンでは経験のないDにはさらにつらい求職活動となった。いろいろな仕事に応募しても何の反応もなし、「もしかしてこのままずっと仕事が見つからないのでは」とDも気が気ではなかっただろう。そんな彼のサポートをするべき僕のほうも、「こんなはずじゃなかった」とテンパってしまい、お互い精神的に余裕のない、ある意味一触即発状態の生活をしていた。

今思い返してもDが失業中の15ヶ月間は非常に大変なものだった。Dはあり余った時間を使ってボランティアをしたり、趣味の写真のクラスを取ったり、ちょこちょこと外出していたが、それでもほとんどの時間(特に寒い冬の間)は家に籠もりがちになり、気分も沈んでいった。「今日も何の収穫もなかった」なんていうことを毎日聞く僕のほうもつらくて、現実と向き合うのが大変だった。

そんな中、少し気分を入れ替えるために、5月のメモリアルデーの時期に1週間休みを取って旅行に出かけることにした。行き先はカナダ。トロント、オタワ、モントリオールの3都市を車で巡って、カナダという国の優しさや美しさにも触れ、だいぶ心が落ち着いてリラックスすることが出来た。

不思議なことに、その旅行がきっかけで少しずつ状況が改善し始め、ついに7月には待望のDの仕事が決定したのだった。そこでは僕と同じ顧客を相手に、ITのコンサルティングをすることになった。こうして長かった失業生活から脱して、それから念願だった初の共働き生活が始まることになった。

それからは家事の分担や時間の使い方などを見直すことになり、それはそれで難しいものがあったが、協力し合いながら新しい環境に慣れる努力をした。お互い忙しくなったけど、心の距離だけは遠ざけない努力をした。

この1年間で僕の仕事の環境も様変わりし、親しかった先輩や同僚が転職して行ったりする一方、僕のほうは少しずつ責任のある仕事を任されるようになり、やりがいのある仕事が楽しい時期だった。数年一緒に仕事をしてきて信頼のおける同僚や日本のスタッフたちと協力して、どうすればプロジェクトがスムーズに回るかということに重点を置いて、日々脳みそを使いながら仕事をしていった。

顧客相手の仕事なので、ただ長時間仕事をしているだけでは意味がなく、「どうすれば顧客が僕らのプロポーザルにYesと言うか」について話し合い、顧客の立場に立って戦略を練っていくことが必要だ。顧客側と日本の開発側の両方が納得いく案を考えることはなかなか難しいことだが、それに成功して物事がうまく進んだときの達成感はひとしおだ。その達成感を味わいたくて仕事をがんばっている気がする。

この年の年末は、一人で日本に里帰りした。久しぶりに自分だけの時間を満喫し、家族やいろいろな友達と会って近況を連絡しあった。大晦日にはDとオースティンで落ち合って、新年はオースティンで祝った。
[PR]
by dice_michigan | 2005-03-12 12:45 | 自分史

2003年、27歳

仕事にもだいぶ慣れてきた1月の終わりに、顧客のオフィスへサプライヤーレジデントエンジニアとして出向になることが決まった。うちの会社からこの顧客へ人が出されるのは初めてのことで、第一号としていろいろと試行錯誤でやっていた部分も多かったが、その分あまりプレッシャーもなく自分のペースで仕事が出来たので、ある意味とてもいい環境だった。顧客は全米最大の会社ということもあって、まるでお役所のような面倒くさい手続きが多く、物事が進むのも非常に遅い。そんな自分の会社とは全く違った環境を経験できたのも大きな収穫だった。

4月にはDが仕事を辞めてミシガンにやってきた。ミシガンではまだ仕事が見つかっていなかったが、もう半年以上遠距離恋愛をしていて待ちきれなくなったのと、「アメリカ人だし、職務経験もあるし、こっちに来てしまえばきっとすぐに仕事は見つかるだろう」という楽観的な考えがあってのことだった。その後1年以上も失業が続くとはこの時は予想もできなかった。

僕のほうは6月の終わりに初めての日本出張へ。日本の本社を訪れ、日本側のスタッフと一緒に仕事をしながらチームワークを育んでいった。愛知県郊外にあるうちの会社周辺はデトロイトと同じ車社会で、車がないとショッピングや外食もままならないといったようなところだった。ということで、鉄道の駅周辺に滞在していた僕には少しつまらないところで、週末などに名古屋まで遊びに出るのが唯一の楽しみだった。その他にも、出張中は札幌にあるオフィスにも行かせてもらい、おいしい札幌ラーメンや海鮮料理などを味わうことも出来た。

この出張中に日本にあるアメリカ大使館へ就労ビザの申請もしていたのだが、予想以上に時間がかかってしまい、やむなく出張を延長してビザの到着を待つことになってしまった。移民局や大使館を相手にどうすることもできないこの無力感は、ビザや永住権を取る人なら誰でも味わう感覚だろう。ダイヤルQ2に電話をして情報を取りつけたり、大使館にファックスを送って「早くしてー」と懇願してみたけど、どれだけ効果があったのかは不明だ。そうこうしているうちに、待望のビザがようやく届き、1週間遅れでアメリカへ無事帰国することが出来た。

この年の後半から翌年の前半にかけては、Dの失業が僕らの生活に大きな影響を残すことになった。ミシガンは、最大の雇用者である自動車製造業界が不振、おまけにIT不景気でほとんど求人がないというかなり厳しい状況だった。することがなく時間を持て余すD、冬になると寒くどんよりとした気候で外にも遊びにいけない、ミシガンではまだ友達も少なく、村意識が強いミシガン人に溶け込むのも難しいなど、フラストレーションが溜まる状況が長く続いた。この時期がある意味僕ら二人にとっての試練で、喧嘩や衝突も多かったが、それを乗り越えたからこそ今の僕らがあるのだと思う。

そんな中、待ちに待った冬休みはDと二人でミシガンから脱出し、日本へ帰国。2週間あまりの滞在を楽しんだ。Dも僕の実家ではすっかり家族の一員としてもてなされ、家庭的な年末年始の雰囲気がすごく気に入ったようだった。それと同時に生まれて初めて沖縄へも旅行して、本土とは一味違った雰囲気も楽しむことが出来た。
[PR]
by dice_michigan | 2005-03-11 11:38 | 自分史

2002年、26歳

いよいよMBAも最終学期を向かえ、刻々と卒業の時期が迫っていた。最後の授業はCapstoneと呼ばれ、市内にあるMotorola社の1部門に対してコンサルティングを行い、学期末にプレゼンテーションを行うというプロジェクトが割り当てられた。MBAの仕上げということで、気合を入れて取り組むことが出来た。

それも無事終わり、5月に晴れて卒業。卒業式のために両親もオースティンまで駆けつけてくれ、1週間余りの滞在を楽しんでもらった。この時はツアーコンダクターDiceが、「せっかくはるばるここまで来たんだから」と盛りだくさんなテキサス観光を遂行。結構忙しい日程だったが、卒業パーティではオースティンの友達に顔を合わせてもらえたし、1週間の間にDの人柄も知ってもらえるいい機会だったと思う。最後の夜は自宅でBBQをし、その後「それで二人(Dice & D)は今後どうしたいと思ってるのかね?」みたいな結構まじめな話までして、それはそれで意義深い経験になった。またこの頃には禁煙も成功し、ついにタバコから足を洗うことが出来た。

さて、卒業は無事に済んだが、就職先はまだ決まっていなかった。OPT (Optional Practical Training)という1年間の期限付きの就業許可証はすでに発行され、刻一刻と時が経っていった。同じ時期に卒業した友達と情報交換しながら、毎日就職活動に明け暮れる日々が続いた。

3年前にアメリカにやってきたときはドットコムブーム全盛期で、ここオースティンも好景気で仕事が有り余っていた。しかし3年経ってバブルがはじけ、オースティンはレイオフされた人たちであふれ返り、とてもじゃないけど新卒でビザなしの僕が仕事を見つけられるような状況ではなかった。Dと話し合った結果、「就職できなくて日本に帰るよりは、どこでもいいから仕事を見つけてとりあえずアメリカに残るほうが賢明」と判断し、やむなくオースティンでの就職をあきらめて全米で仕事を探すことにした。

ビザサポートが必要となると、やはり最初は日系企業への就職が妥当だった。それからはNYやLAにある日系のリクルーターと密に連絡を取り合い、いい求人があったら即申し込み、電話面接などもちょこちょこと入るようになった。4年前の就職活動経験の教訓を活かして、今回はしっかり時間をかけて丹念に準備をすることができた。あの頃の経験も無駄ではなかったということだ。

とはいえ、日系企業も不景気で、さらに就職希望の日本人留学生が有り余っているという状況で、なかなか「これだ」と思えるようないい仕事がなく、毎日ひたすら就職活動ばかりしている生活も精神的にはあまりよくなかった。一番初めにもらった内定は、テキサスとメキシコの国境にある製造業の会社で、営業職で年俸2万4千ドルという、「馬鹿にしてるのか?」と思えるほど最悪のオファーだった。当時は「そうでもしなきゃアメリカに残れないのかな?」と真剣に悩むほどせっぱつまっていたのだが、結局そのオファーは断ることにした。

その他にも新卒だと3万ドル前後からという感じで、院卒という学歴もあまり就職には関係がないようだった。当然のことながら残業代その他の手当てもつかず、特に物価の高いNYかカリフォルニアでそんな給料だったら、とてもじゃないけど暮らしていけなかったかもしれない。職務内容も「文系で男なら営業」というパターンが決まっていて、なかなか自分がやりたいような仕事を見つけることが出来なかった。

そんな中、ミシガンに住む個人リクルーターからの一通のメールが縁で、7月に今の会社が見つかった。仕事内容はプロジェクトの管理で、MBAで勉強してきたことに通じるものがあった。給料も他に比べればなかなかよく、オフィスや社員の雰囲気も好印象だった。正式にオファーも受諾し、僕は8月にミシガンに引っ越し、Dはとりあえずテキサスに残ることになった。

就職した会社では最初は分からないことだらけで緊張や不安の連続だったが、基本的にオフィスの雰囲気もよく楽しく仕事をすることができた。同僚たちとも仲良くしてもらうことができ、新しい土地での生活の不安や遠距離恋愛の寂しさも紛らわすことが出来た。1ヶ月に1度はDとも会うようにして、二人の関係を保っていった。

就職したてで収入よりも出費のほうが多く、自立したとは言ってもまだまだ財政面のやりくりで苦労していた時期だった。とはいえ、数年ぶりに歯医者に行って歯の手入れをしたり、健康診断、コンタクトの買い替えなど、会社の健康保険を駆使していろいろと健康面でのケアをできたのがうれしかった(学生時代の保険は最低限のものだったので、ほとんど何もカバーされなかったのだ)。

こうして無事に社会人生活が始まり、少しずつ人生が安定しているような気がした1年間だった。
[PR]
by dice_michigan | 2005-03-08 12:04 | 自分史

2001年、25歳

MBAの中でもいろいろと専攻が分かれていて、僕はMIS(情報システム管理)を集中的に勉強していた。プログラミング言語を勉強するのもおもしろかったし、SQLサーバーなどのデータベースなどを使ってタスクを効率化・簡素化するということにすごく興味を持っていた。

そんな熱意が通じたのか、MISの担当教授から「僕のティーチングアシスタントをやってみないか?」というお誘いが来た。いい経験にもなるし、人脈も広がるチャンスだ。そんなまたとない機会に喜んで仕事をすることにした。ビザの関係で週20時間しか働けなかったが、他の勉強もあったのでそれくらいがちょうどよかった。仕事の内容は、教授のリサーチの手伝い(論文検索、情報収集などの雑用)などから、授業資料の作成、宿題の添削、試験の採点など、そして時々はオフィスのハードウェアやネットワークのセットアップやメンテナンスも手伝った。市内で開かれたカンファレンスなどにも顔を出すなど、すごくいい経験をさせてもらったと思う。

前年の夏はのんびりと過ごしてしまったので、「今年はもう少し張りのある生活を」ということで、バイトの傍らスペイン語の授業も聴講することにした。テキサスにはメキシコ系の人たちが非常に多く、スペイン語にふれる機会もたくさんあるのだ。週3回、朝早く年下の学部生たちと一緒に勉強することになった。それもとても楽しくて、いろいろと勉強になった。

そして7月には母がオースティンにやってきた。英語を勉強したいという母の希望もあって、1ヶ月間UT近くの語学学校に通うことにしてもらった。勉強に集中できるよう、滞在中の大半は学校の近くの大学寮を借りて住んでもらうことに。僕でも経験したことのない寮生活を体験してもらえて結構面白い滞在になったのではないかと思う。夕方や週末は一緒に食事をしたり出かけたり、思い出に残る滞在となった。母の持ち前の行動的・社交的な性格から、オースティンの友達の間でも人気の的で、「いいお母さんだねー」なんて言ってもらえてすごくうれしかった。Dと母という嫁(?)・姑間の関係を築くいい機会でもあった。

そんな盛りだくさんの楽しい夏休みが終わって、9月になると秋学期が始まった。その直後にテロが発生。この事件でアメリカは揺れに揺れまくり、しばらく不安定な時期が続いた。愛国心に燃えあがり、一致団結するアメリカ人たちを目にして、価値観のズレや疎外感を感じた僕。おまけにバイトと勉学の両立で少し疲れ気味になっていた。次第にストレスやいろいろな感情を溜め込むようになってしまい、ついに鬱病になってしまった。

それから数ヶ月間、もぬけの殻のような状態で、だるい、やる気がおきない、そして意味もなく悲しくなる毎日が続いた。幸いDや周りの友達が辛抱強くサポートしてくれたし、一応日常の生活(バイト・授業)は支障なくこなせたので、ダメージは最小に抑えられたが、その数ヶ月間はとてもつらいものだった。思うように動けない→物事がうまく行かない→「何やってるんだ、自分」、みたいな悪循環が続き、絶えず心臓がキューンと引き締まって重い感じがしていた。

「これではいけない」と無理して出かけてみたり、いろいろな活動に参加して忙しくしてみたが、あまり効果はなかった。後で知ったことだが、運動してストレスを発散することはいいことだが、それ以外はゆっくり休養するほうが鬱病治療にはいいらしい。最終的には学校の心理カウンセラーに通って、心の内にたまっていたことを整理して、そして年末には日本に帰国して、だいぶ落ち着きを取り戻すことが出来た。

以前から鬱気味になることはあったが、これほど重度のものは初めてだったので、正直びっくりした。もし読者の中に鬱気味の人がいたら、無理をしないでゆっくり休むこと、そして一人で溜め込まないで誰か理解してくれる人に相談することをお勧めする。
[PR]
by dice_michigan | 2005-03-06 21:53 | 自分史

Photo album circa 1997

PCを整理していたら、昔の写真が出てきましたのでここに公開します。
1997年頃の、ちょうどデジカメが出始めた頃でした。

一応顔がばれないようにぼかしてみたけど、どうかな?

b0023611_12222065.jpg国際交流キャンプのボランティアリーダーたちと。今見るとみんな若ーい。




b0023611_12233067.jpgボランティア仲間と飲み。僕は右上、D様も右下(さっちゃんの隣り)にいらっしゃいます。




b0023611_12354318.jpg一番大きいのが、うちに1ヶ月滞在したシンガポールからの友達。僕ちんは右下(この頃は顔細かった!)。親友さっちゃんもいますね。
[PR]
by dice_michigan | 2005-03-04 12:30 | 自分史

2000年、24歳

MBA生活2学期目は、勝手も分かってきたので授業もだいぶ楽になった。留学生仲間もでき、一緒に図書館で勉強したり、勉強の合間にご飯を食べに行ったり、楽しく過ごすことが出来た。留学生アドバイザーとも仲良くしてもらえて、時々は新入生のオリエンテーションへ行ってお手伝いをしたり、留学生同士の集いなんかにも顔を出した。

授業では、日本人ということで「日本ではどうなの?」などと話をふってもらう機会が多かった。不景気の日本でも腐っても鯛という感じで、みんな日本のビジネスシーンに興味を示していて、それに応えようと僕も一生懸命日本のことを勉強したりして、いい刺激になった。

夏休みは授業をとらずに休むことにした。1年ぶりに日本に帰って、約1ヶ月間羽を伸ばし、なつかしの湘南のキャンパスやアパートなどに足を伸ばしてみたり、友達と会ったりして楽しく過ごした。また、短期で国際交流団体での事務バイトも再開し、なかなか有意義な滞在となった。

アメリカに戻ってきてからは、姉二人が遊びに来てくれてテキサス観光したり、エアロビやサイクリングに汗を流したり、友達と会って食事をしたり遊んだり、今思い返すと「何て贅沢な時間の使い方なの!」とうらやましくなる(逆にちょっと怠けすぎてもったいないとも思ってしまう)。ちょうどこの頃日光も家族の仲間入りをして、猫育てに没頭していた時期でもあった。

日本人の友達と言えば、この頃知り合った同じ大学のNちゃん、クラスメートに紹介してもらったMさん、Mさんに教えてもらって顔を出し始めた日本語同好会のクラスで知り合いになったUTのK君とHちゃんなど、あれよあれよという間に日本人仲間の輪が広がったのがうれしかった。それに加え、Dが日本で仕事をしていた頃の元同僚の日本人たち(ほとんどは女性で、結婚している人が多い)もオースティンに多数住んでいて、そういうお姉さま方にも一緒に遊んでもらったりするようになった。オースティンみたいな小さな町でも探せば日本人って結構いるものなのだ。

そんな中、「へー、世の中は狭いねー」と実感させられることも多かった。K君はなんと僕の大学時代の親友であるさっちゃんと小中の同級生、Hちゃんは僕のボランティア仲間と同じ大学の知り合い、さらにその後出会ったUTのMちゃんは、なんと僕と同じ小中学校の後輩で、「キャサリン」のことも覚えていたのだ!まったくこんなところまで来て、こんなに人とつながっているなんて、正直びっくり。
[PR]
by dice_michigan | 2005-03-04 11:37 | 自分史

1999年、23歳 その2

8月中旬、片道航空券を手にアメリカへ入国し、僕の留学生活がスタートした。「アメリカ人に囲まれて、授業についていけるかな?」、「周りは年上のお偉いさんばっかりだったらどうしよう?」、「職務経験がほとんどないのに授業に貢献することができるのかな?」などなど、この期に及んでいろいろな不安はあったが、もう後戻りはできないのだ。

授業が始まる前に、まずはMBAの新入生たちで集まってオリエンテーションが開かれた。説明があったのは、授業の取り方、成績のつき方、メール・インターネットの使い方、図書館の案内などなど、「なーんだ、普通の学校と同じじゃん」と少しほっとした。逆に「年上のお偉いさん」にとっては、久しぶりの学校の授業で、慣れないことも多かったのかもしれない。

このオリエンテーションでは、始めは周りにはだーれも知り合いがいなくてすごく緊張していた僕だが、アイスブレーキングのゲームをしたり、ランチのテーブルで他の留学生と知り合いになったりして、少しずつその緊張もほぐれていった。そしてこのときにすらっとしたアジア人の女の子を見かけて、「あーよかった、こういう人もいるんだー」となんとなく安心してみたり。この時はまさかその女の子が僕の親友になるとは思いもしなかったのだが。

そして初めての授業。またもや緊張でガチガチになりながら、聞き取れなかったときのためにMDレコーダーを携帯してクラスルームに入場。室内を見回すと、オリエンテーションで見かけたアジア人の女の子が目に入った。とっさに駆け寄り、「すみません、僕知り合い誰もいないんですけど、隣に座ってもいいですか?」と話しかけた度胸のある僕。だってねー、一人より二人のほうが気が楽じゃない?そうしてこのときから二人の友情が始まったのだった。(ただし、始めに彼女の名前であるMarissaがなかなか聞き取れずに「Melissa?」などと何度も聞き返す羽目になった。アメリカに来て、人の名前を聞き取るのに慣れるのには結構時間がかかった。)

MarissaはNYのロングアイランドで生まれ育ったフィリピン系アメリカ人。彼女も彼氏を追いかけて今年テキサスにやってきたのだという。しかも彼女の職場は僕の当時の住まいからわずか2ブロック先という近距離。それからちょくちょく一緒にお昼ご飯を食べたり、仕事の後一緒に学校へ行ったりするようになった。

さて、肝心の授業のほうはテキサスの大らかな雰囲気のもと和気あいあいと楽しく進められ、ディスカッションなどにも何とか参加することができた。学期末にはグループでのプレゼンを行うという授業が多く、いろいろな人たちとグループになって一緒に勉強や作業をする機会が与えられた。生徒たちはやはりフルタイムの社会人が多かったが、その中にも僕のような留学生もちらほら見受けられ、アジアや中南米などからの学生が多かった。年齢層は20代後半から30代という若めの年代が大部分を占めていたので、クラスメートたちには特に負い目を感じることもなく割と普通に接することが出来た。

課題やリーディングアサインメントは量も多く大変だったが、僕みたいな仕事を持たない学生はゆっくり時間をかけて勉強することができたので、なんとか授業についていくことができた。この頃はさすがに毎日大量の教科書や資料を読み漁り、猛烈に知識を吸収していた時期だった。また、課外講座でコンピュータの授業もいくつか取り、パワーポイントなどのスキルを磨いていった。

高校・大学時代あれほど苦手意識が強かった数学だが、こっちで取った統計の授業ではいつのまにか優秀な学生に逆戻りしていた。やっぱり日本の数学水準ってすごく高いみたい。周りのアメリカ人が四苦八苦するなか、僕は「なんだ、高校受験で習った内容じゃん」とスラスラ解くことができた。三つ子(十五つ子?)の魂百までということか?

逆に、発言や発表が重視される授業はやっぱり苦手で、ヒートアップする議論についていけなくなったり、壇上でしどろもどろになったりしたが、「今日は最低でも一度は発言しよう」というささやかな目標を少しずつ達成しながら何とか少しずつ慣れる努力をした。日本では「英語が得意」という意識があり、「英語しゃべれるの?すごーい!」なんてちやほやされることも多かったが、やはりアメリカに来ると「自分の英語力なんてまだまだじゃん」と改めて気づかされる。それと同時に、周りのアメリカ人に少しでも近づけるように努力するようにもなった。

ライティングのスキルもまだまだだったこの時期、レポートや論文を書くこともすごく大変だった。悪戦苦闘しながら下書きを書き上げて、Dに添削してもらうという作業が続けられた(でもDもあまり細かく見てくれず、数箇所直す程度。「もっとしっかり見てよ!」と思ったけど、結果的にDに頼ることなく自分の力でやる癖がついたと思う)。唯一救われたのは、APAという論文スタイルに日本の学生時代から慣れ親しんでいたこと。それを知らなかったら、論文の書き方から勉強しなければならなくて大変だっただろう。この辺は英語での教育を重視していたうちの大学や教授たちに感謝だ。

最初の学期ということで、ここには書ききれないほどの苦労や緊張、戸惑いなどがあったけど、結果的にはその学期に取った授業全てAを取ることができて、僕のアメリカ生活にとって大きな自信に結びついた。

Dとの生活も順調で、この年にダウンタウンのロフトから、僕らがその後3年近く住むことになるコンドヘ引越しもした。正直アメリカに来る前は、「Dと初めての同棲生活をうまく送れるかな?」という不安も多少あったが、Dの温かなサポートもあって二人は幸せに過ごすことができた。

翌年もMBA生活は続く。
[PR]
by dice_michigan | 2005-03-03 08:50 | 自分史

1999年、23歳 その1

3月に無事大学を卒業。この大学で過ごした4年間は、非常に中身の濃いものになった。新しい学部なのに創始者の意思を受け継いだチャレンジ精神にあふれるところで、「世の中を変えて行きたい」というような人たちが集まったエネルギッシュなところだった。カミングアウトというある意味第二の思春期を克服する過程では、人間関係や学生生活に悩んだり、疎外感や孤独感、心的疲労などから鬱気味になったりしたことがあったが、卒業する時期になると仲のよい友達も数人できて、幸せな気持ちで卒業を迎えることができた。

卒業後は国際交流団体での事務バイトも時間を増やし、週4日ほとんどフルタイムで働くことになった。内容も少しずつ責任のある仕事を任されるようになって、やりがいのある楽しい仕事ができた。一緒に仕事をした上司たちとの相性も抜群で、週末なども一緒に出かけたり、飲みに行ったりするようになった(今でも彼女たちとは機会があるごとに会っている)。この間にした仕事が、就職をしなかった僕にとっていい社会経験になったし、後に大学院に進んだときにもこの時の経験を土台にして勉強することができた。毎日渋谷へ通勤できたのも楽しい経験だった。

話が前後するが、卒業前から留学の準備は着々と進み、TOEFLも630点で問題なし、推薦状も教授や上司に書いてもらい、出すべき書類が全て揃っていた。Dの勤務候補地がニューヨークかオースティンだったため、僕の留学先もその2都市に絞った。希望の専攻は、外国語教授法もしくはTESOL。ゼミで勉強したことをさらに深く掘り下げて学ぶつもりだった。

ところが、人生というのはおもしろいもので、NYU(ニューヨーク大学)からは合格通知をもらったが、本命であるUT(テキサス大学)へはGPA(平均成績)が低かったため入ることができなかった。ちょうどその直後、下見も兼ねてオースティンへ来ていたので、大学に直接足を運んで直談判してみたのだが、それも効果なし。この時ほど「ちゃんと勉強してもっといい成績を取っておけばよかった」と思ったことはなかった。その頃にはDがオースティンに住むことがほぼ決定していたので、NYUに進学する可能性もなくなってしまった。

しかたなく、オースティンにいる間に他の大学を回ってみることにした。いろいろ探し回った末に見つかったのが、わが母校St. Edward’s University。規模は小さめで、全国的には知名度がほとんどない学校だが、オースティンの人に聞くと「あーあそこはすごくいい学校だよねー」という反応が返ってくるようなところだった。カソリックの大学だったので、「これはカソリック教徒のうちの母にも受けがいいかも」と下心丸出しの僕。バスを使ってキャンパスに行ってみると、なんともかわいらしい校舎とフレンドリーな雰囲気が気に入った。早速入学課のオフィスへ行ってオフィサーと話をしてみた。

オフィサーはアメリカ人だったが、話を聞くとなんと彼は昔僕の出身大学に1年間交換留学生として来ていたとのこと。こういう偶然って、ただの偶然とは思えず、何かしら縁があって導かれてきた気がした。説明を聞くと、この学校の一番のお勧めプログラムはMBAとのこと。「ビジネスかー、ビジネスマンになるなんてあまり考えてなかったしなー」と初めはあまり乗り気ではなかった僕だったが、じっくり考えるうちに「まあそれでもいいかな」みたいな気持ちになってきた。去年から始めた事務バイトの経験からオフィスでの仕事にも興味が出始め、特にデータベースを使った仕事の効率化にすごく興味がわいていたときだった。加えて、日本の大学で勉強してきたこともどちらかというとビジネス寄りの授業が多く、その道を掘り下げるという意味でもMBAに進むことは適している気がしてきた。おまけにこの学校はキリスト教にしては珍しくGLBTサークルやGLBT差別禁止方針もちゃんと存在して、ゲイの教授やスタッフも多数いるとのことだった(オフィサー談)。

ということで、外国語教師になる夢はあっさりあきらめて、MBAへの道を進むことにしたのだった。いろいろな理由から「偶然」そうなったといえばそれまでだが、結果的にはMBAに進んで本当によかったと思っている。教師はある意味「教育」という分野に凝り固まる職業だが、MBAはビジネス一般を学ぶので、就職の時にも業界や分野を問わず、非常に応用がききやすい学問なのだ。

そうやって進学先も決まり、学生ビザも無事下りて、いよいよ留学開始まで秒読みが始まった。
[PR]
by dice_michigan | 2005-03-01 11:40 | 自分史

1998年、22歳

大学生活も最後の年になり、いよいよ卒業後の進路を決めなければならないときが来た。とりあえずまわりの流れに合わせるようにインターンシップや就職活動をすることにしてみた。インターンシップをやったのは某英会話学校の教室で、英会話学校の実態を覗くいい機会だった。その時は「普通のつまらないサラリーマンになるのなんて絶対嫌。自分にはこの職業がぴったりなんだ」と自分に言い聞かせていたが、今になって思うと「本当にこれが自分のやりたいことなのか?」と最後まで自問自答していた気がする。夜間や週末も仕事で、地方への転勤もありなんていう、労働環境としてはあまりよくない条件だった。そういう迷いが現れてしまったのか、結局いくつか受けた英会話学校も最終面接で落とされてしまった。

英会話学校の他にも、当時の学生たちの憧れの職業だった、PWCなどの外資系コンサルタント業界や、IBMなどの外資系IT業界などの会社も受けてみた。でも「なんとなくかっこよさそう」という程度の憧れではもちろん雇ってもらえるわけもなく、結局「自分が本当にやりたいこと」を就職に結びつけることができずに、就職活動は完全に行き詰まってしまった。

そんなことをしている間、Dは1年間の出張を終え祖国へ帰国する時期がやってきた。期間限定の出張であることは分かっていたが、帰国直前になるとやはり悲しくてお互い胸が張り裂けそうな気分だった。いろいろと理由はあったが、「帰国後は付き合いをやめよう」とお互い合意して、最後に二人だけで旅行に行って関係を終わらせることにした。

それから数ヶ月間、上に書いたように就職活動をしながらも「心はここにあらず」という感じで、絶えずアメリカに行ってDと一緒になることを考えていた。向こうも僕への思いを断ち切れなかったようで、もはや僕らは離れ離れになることなど考えられないような関係へ発展していたのだった。

アメリカに行く場合、唯一考えられる選択肢は「留学」だった。海外在住経験が皆無の僕にとって、ずっと憧れだった留学。「私はアメリカの大学院を卒業して…」なんて一度でもいいから言ってみたかった。「就職もうまくいかないし、Dと一緒になりたいし、これは留学するっきゃないでしょー」と決意を固め、意を決して両親に相談することにした。

この頃両親は僕に対して非常にヤキモキしていたようで、「あの子は就職もできずに何をやっているんだ」状態。そんなところに「あのー、僕にはアメリカ人の彼氏がいて、そのー、留学して一緒に住もうかなー、なんて思ってるんだけど」なんて言ったもんだから、「こいつは何ばかげた事言ってるんだ、ボケ」状態へ発展。ついには一生に一度しか記憶にない家族会議なども開かれ、結果として両親はしぶしぶ留学をサポートすることに合意してくれた。お父さん、お母さん、苦しい決断だったと思うけど、本当に感謝してます。ありがとう。

こうして、一歩間違えれば就職浪人、プー太郎、ニート、引きこもりなどになりかねなかった僕が、ようやく「留学」という目標を定めることができたのだった。早速翌年あたまの申し込み期限に向けて、いろいろな大学のプログラムを調べたりと、留学の準備を始めた。

そして、卒業までにいろいろなことをやっておきたいという気持ちから、いくつかアルバイトもしてみることにした。まずは短期間だけコンビニでバイト。ずっと興味があった小売業界の流れを学ぶことができておもしろかった。お客様に「いらっしゃいませー」とすがすがしく挨拶したり、商品の陳列の仕方やレジの取り扱いを学ぶなど、一度は経験してみる価値があった。売れ残りのお弁当やおでんなども持ち帰れることがさらにうれしかった。

続いては、国際交流団体でのバイトも始めた。今まではボランティアとして働いていたが、バイトとしてオフィスの事務的なこと(生徒の申込書、ビザ手続き、ホストファミリー・ボランティア情報の管理など)を手伝うことになった。これもなかなか楽しい仕事で、社会人の常識(手紙の書き方、電話のかけ方、etc.)なども勉強になったし、組織のなりたちや上下関係なども学べるいい機会だった。始めは下っ端の雑用が多かったが、「こうやってオフィスで仕事するのも楽しいかも」なんて思い始めていた時期だった。

僕にとっては激動の一年がようやく終わり、翌年はいよいよ大学卒業、そして留学が始まる。
[PR]
by dice_michigan | 2005-02-27 22:24 | 自分史