ミシガン州に住んで丸8年。5年前にデトロイト市内に引っ越しました。デトロイトのことや、自分のこと、大好きなマライアのことなどについてのブログです。(photo by nasa)


by dice_michigan
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カテゴリ:ビザ・グリーンカード( 16 )

午後4時過ぎにデトロイトへ到着。デトロイトでは荷物がすぐに出てきたので、カーブサイドで待っていたD様にピックアップしてもらう。

「時差ぼけで眠いなー。でも家帰ったら隣のブリュアリにでも行こうかー」などとD様と話をしながら帰宅。家のドアの前には「おかえりDice!」と書かれた隣人からのメッセージが。「わー、クレアとフランシスからこんなメッセージが書かれてるよー」と先に家に入ったD様に伝えるも、D様は無視してベッドルームへ。「え、もうベッドイン?気が早いわね!」と思い後をついていくと…

「サプラ~イズ!!」

友達5人余りがベッドルームに隠れて待ち構えていてくれたのだった。よくよく見るとダイニングテーブルに緑の風船やらスパンコールやらがちりばめられている(ちょうどアメリカではSt. Patrick's Dayという緑色がテーマのお祭りの直後だったため、この種の飾り物はたくさんあったのだろう)。名づけてグリーンパーティ。うれしさに眠気が一気に吹き飛んでしまった。

乾杯の後、「I'm Greened!!(グリーンカードもらったぜぃ!)」とにっこり記念写真を撮った後、飲んで飲んで、飲んで飲んで、飲みまくった。後からも友達が何人も駆けつけてくれ、日本での思い出話などに花が咲いた。

そして、いい気持ちのパーティ主役から全員にキッスのお礼を差し上げた後、パーティはお開きとなったのだった。

その後、約1週間後に新しいソーシャルセキュリティーカードが届いた。これには「INS(今で言うDepartment of Homeland Security)の許可なしには労働不可」という文言が書かれていない。つまり移民局の制限なく仕事に就けるという証なのだ。

それから、正式なグリーンカードは、入国から約1ヵ月後に自宅に郵送されてくる予定。これはまだ待っている状態だ。それまでは、パスポートに張られた1年有効のテンポラリーのビザで海外を行き来できる。

こうして2004年の中盤から始まった僕のグリーンカード申請は、およそ7年経った2011年の春に終わりを迎えたのだった。
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by dice_michigan | 2011-03-31 04:26 | ビザ・グリーンカード
その週の後半になって、予定通り永住ビザ付きのパスポートが大使館から実家に送られてきた。これで安心してアメリカに帰れる!

仙台旅行がキャンセルになったので、新宿に2泊してからアメリカに帰ることにした。両親を後にして一人で遊びに行くのは少し後ろ髪が引かれたが、両親自身も至って普通の生活を送れていたので大丈夫と判断した。

初日の夜は、幼馴染みのあきお君夫妻と食事。彼らも電車の規制運転の影響を受けていたが、帰り道の途中で僕と会ってくれることになったのだ。入った西新宿の居酒屋はサラリーマンたちでそれなりに混んでいて、久しぶりに煙い居酒屋の雰囲気を体験した(ゲホゲホ)。ここでも節電のため営業時間を切り上げているとのことで、10時過ぎには店を出た。

泊まっているホテルの最上階ラウンジにでも行ってみようかと思ったが、なんと地震のため上層階のお店は全て閉店していた。やっぱりこんな時期に来る客もいないのだろう。そういえばこのホテルは普段は外国人宿泊客が多いのだが、今回はアジア系の人以外、白人や黒人は一人として見かけなかったのも、ある意味異様だった。しかたなくホテルロビー近くのバーで飲んでから、あきお君たちは自宅へと帰った。

翌日は別のお友達とお昼を食べて、夜は最後の「二丁目ナイト」を楽しんだ。いくつものバーをはしごして、途中からは中学の同級生マツコも合流して、二人で語ったり、踊ったりしながら夜更けまで飲み続けた。

そこからタクシーでホテルに戻ったのが午前3時。4時半にリムジンバスが来ることになっていたので、ちょっとだけ横になろうとしたのが間違いだった。ハッと目が覚めると時間は既に朝の6時を回っていた。羽田からの飛行機の出発時間は6時50分。どう考えても間に合わない!生まれて初めて国際線を乗り過ごしてしまった。

仕方ないので、デルタ航空に電話をして、「すみません、間に合わなくなってしまって…(寝過ごして、とは言わなかった)」と事情を説明すると、「はい、では翌日の便になりますね」との返事。うぇ~、もう1日待ってらんないよー、と思い、「成田発とかで今日飛べませんか?」と聞いてみると、たまたま午後のミネアポリス経由の便が空いていたとのこと。早速ブッキングしてもらった。

ホテルのベルデスクに電話を入れ、少し早めに空港に向かうことにした。空港では日本脱出組でもっと殺戮とした風景を想像していたのだが、着いてみるとまぁいつもの2倍くらいの列の長さかな、といった程度(とは言ってもデルタはいつも混んでいるので、この日はカウンターエリアを半周するんじゃないかというくらい人が並んでいた)。プライオリティメンバーステータスのおかげでチェックインはスムーズに行き、軽く食事をしてから出国手続きを終え、デルタのスカイラウンジでビールを飲みながら出発を待った。

飛行機は混み合っているようだったので、インボランタリーアップグレードとかないかなー、と期待したが(乗り遅れた分際で図々しい?)、結局エコノミークラスで、でも希望していた最後尾の2列シート窓側に座れた。離陸後、千葉沿岸の太平洋を見ると、錯覚なのかどうか分からないが白っぽい(?)がれきが多数漂流しているようにも見えた。あれはただの波だったのかな?

さて、約11時間後に飛行機は無事ミネアポリス空港に到着。入国審査場では、予想通り一番奥に「New Immigrants」のレーンがあったので、そこに並ぶ。その列には前に一人、後ろに一家族いるだけだ。前の人は案の定別の部屋へ連れて行かれて、僕の番が来た。

ブースで書類を提出し、審査官がビリビリと袋を破いて書類をみること数十秒。

「会社名は?」
「永住する意志がありますね?」

質問はこれだけだったと思う。その場で人差し指の指紋を取り、書類にサインをして、永住ビザにスタンプをもらい、終了。「あれ?別部屋に連れて行かれるんじゃないの?」と一瞬思ったが、「You are all set.」と言われたので、ちょっと拍子抜けしながらもバゲージクレームで荷物を受け取り税関へ。毛糸やら100円均一で買ったお土産やらいろいろとスーツケースに詰め込んでいたので、ちょっぴりビクビクだったのだが、税関はノーチェックで通過。荷物を再び預け、ミネアポリスからデトロイトへ飛んだ。

(続く)
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by dice_michigan | 2011-03-31 04:25 | ビザ・グリーンカード
週末は友達と会う約束を全てキャンセルし、日曜日、姉夫婦の住む東京の神楽坂へ向かった。地震から2日経ったこの日は、電車も平常どおりとまではいかないが、50%くらいは復旧していた。私鉄、JR、地下鉄を乗り継いで、夕方になる頃公園で遊ぶ姉夫婦と甥と合流。夕暮れ時に滑り台やブランコで楽しそうに遊ぶ甥や他の子供たちを見て、癒される感情を覚えた。その日の夜は神楽坂のしゃぶしゃぶ屋で国産牛と豚のしゃぶしゃぶをご馳走になり、姉宅で甥とアンパンマンを見てから床についた。

翌日の月曜日、交通機関の乱れを予想して、面接の2時間前に姉宅を出発。地下鉄に乗ろうとするも、南北線がものすごい混雑で断念。駅4個分を歩く決意をした(今思えば道もすいていたのでタクシーを使ってもよかったのだが、その時は自分の足で歩いていくのが一番確実に思えた)。飯田橋から外堀通りをテクテクとあるくこと1時間あまり、多少迷いながらもなんとか溜池山王のアメリカ大使館に到着した。

大使館は思っていた以上にガラガラ。9時半の面接予約だったが9時に到着して、受付番号は11番。僕よりも前に来ていた人たちが順番に窓口に呼ばれ、書類チェック→指紋採取→最終面接の順に手続きを進めていた。今日は永住権面接のみの日のようで、来ていた人たちのほとんどは国際結婚組。キレイな日本人女性とどんくさそうなアメリカ人男性(失礼?)カップルが多い。日本人女性たちはここまで来るのに書類の準備や手続きなどできっと相当の苦労をしてきたのだろう。面持ちもどことなく不安げで緊張感が漂っていた。それに対してアメリカ人夫たちは、いたってリラックスムードで、スウェットシャツ姿でガムを噛んだりコーラを飲んだり、「あー、めんどくせー」感をかもし出しまくり。ある窓口で、手続きがまだ終わっていないのに席に戻ろうとした旦那を掴まえて、「てめーぶっ殺すぞ」視線を送っていた日本人女性に心から同情してしまった。移民手続きの苦労は、たとえ人生の伴侶であろうとなかなか理解してもらえないものなのだ。

さて、30分ほど待った頃、僕の番号がアナウンスされた。書類のチェックは日本人スタッフが日本語で対応。特に書類に不備はなく、警察証明についても、発行された年以降に日本に住んだことはない旨を伝えると問題なしとのこと。ここでレントゲン写真についての扱いの指示があった(スーツケースに入れてアメリカに持ち帰ること。手荷物ではなくてもよい)。

続いて指紋採取。フィリピン系?のおばさんの指示の元、右手4本指、親指、左手4本指、親指とスキャナーでスキャンしてもらう。これは入国審査場のモノと似ていた。

最後の最終面接では、アジア系のお兄ちゃんが英語で3-4つ仕事の内容について質問をした後、めでたく面接は合格。書類にサインをして、今後の流れの説明が書かれたプリントをもらい、大使館を後にした。この時すでに11時頃だった。

実は大使館にいる間も余震が何度も起こっていて、震度3くらいのものもあったりした。その度に待合室で流れていたTVのニュースをチェックしつつ、「こんな時に大使館がいきなりクローズとかしたら嫌だな」とビクビクしていたのだが、幸い大使館の手続きは中断することなく淡々と進められていった。ちなみに前の週の金曜日は大地震の後さすがに大使館もクローズになったようだ。その時にビザ手続きをしていた人たちはどうなったんだろうか…

それはさておき、無事にビザ面接が終わり、晴れ晴れした気持ちで姉宅へ帰宅(帰りの地下鉄はガラガラだった)。その後新宿の高層ビルの眺めのよいレストランで、一人祝杯&ランチを楽しんだのだった(こんなご時世に高い高層ビルに上がる人は珍しいらしく、レストランは閑古鳥が鳴いていた…)。その時は、地震のような揺れを感じても、「風だ、風」と思うことにして心配しないことにした。

ランチの後は、新宿でお買い物。ユニクロで下着、岡田屋で毛糸(珍しいものがたくさんあって楽しかった!)、伊勢丹はウィンドーショッピングのみ、そして丸井メンズ館では衣類を大量に買い占め。平日の昼間で店は空いていて、節電のため普段より早い時間にしまってしまったが、僕にとっては十分買い物を楽しめた。そして夕方には二丁目でビール休憩。バーのママ(♂)と地震の話をしたりしながらたそがれていたが、お友達のルルちゃん(アイルランド人)がすぐ近くの新宿3丁目で飲んでいることを知って、そちらに合流することにした。

そこではルルちゃんとルルちゃんのお友達(みんな外国人)数人が飲んでいたが、みんな原発の放射能漏れを心配していて、祖国や原発から離れた地方に移ることを考えていた。日本在住歴が長ければ長いほど、「避難」願望は弱くなるような印象を受けたが、特にヨーロッパから来た人たちは、チェルノブイリの影響をもろに受けている人たちも多く、祖国の家族たちも相当心配しているようだった。「実は今こうして外で飲んでることも、祖国の家族には内緒なの」と言っていたイタリア人女性は、その週のうちにイタリアに帰国することが決まっていた。

心配や不安はあったが、お酒を飲んで陽気になり、「放射能で髪がオレンジ色になっちゃったらどうしよー」とか冗談交じりに笑い合ったりして、楽しい一時を過ごすことができた。その後タクシーで姉宅に戻り、もう1泊してから翌日埼玉の実家に戻った。

(続く)
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by dice_michigan | 2011-03-31 04:24 | ビザ・グリーンカード
それから月曜日の面接までの数日間、埼玉や都内にいる友達や姉家族と会ったりしてまったり過ごす予定だったが、3/11の地震のおかげで予定が大幅に狂ってしまった。

本当は地震があった日の昼間、隣駅の図書館に行って勉強でもしようかと思っていたのだが、面倒くさくなって(笑)家でゴロゴロすることに。母は姉の姪っ子が熱を出したとのことで、都内へベビーシッターに出かけていた。定年生活の父と二人で近くのラーメン屋で昼飯を食べ、家に帰って時差ぼけ解消のお昼寝タイムに突入したのだが、地震で家が揺れ始めるとすぐに目が覚めた。

始めは小さかった揺れも、徐々に強くなっていき、本棚から物がバッサバッサと落ち出し、部屋のぶらさがり型蛍光灯もブンブン横殴りに揺れた。台所からもガラスのボトル類が落ちて割れる音が聞こえた。ただただ呆然と布団を抱きしめたまま、1分近く地震がおさまるまで待った。揺れがおさまった後は、ガクガクする足を押さえつつ、床の間の父の様子を伺いに行くと、父も呆気に取られている様子。とりあえずお互いの無事を確認して、TVのニュースを見始めた頃…

「ピンポーン」
「XXさーん!いますかー?」とご近所さんの声。
「安否確認でもしているのか?」と思い出て行くと、「XXさんちの塀が倒れちゃってるよー」と。

外に出ると、うちや近所の御影石の塀が見事に道路に向かって倒れている(鉄筋入りの塀などは大丈夫だったようだ)。見覚えのあるご近所のおじさんおばさん全員が外に出ていて、倒れた石塀の後片付けを手伝ってくれた。

「あらー、Diceちゃん久しぶりねー。大きくなってー」「いえー、ちょうど休みで帰省してましてー」などと世間話をしながらも、少し前に起きた地震にみんなビクビクの様子。片付けている間も余震が何度も襲い、そのたびにおばさん達が不安なため息をついた。おまけにこんな時に限ってどんより嵐でも来そうな空模様。「天災」と呼ぶにふさわしい気味の悪い雰囲気だった。とりあえず邪魔にならない程度に石を側道によけて、家の中へ戻った。

その後のTVでみる東北地方のおぞましい津波の生中継は、この世の末を思わせるものだった。車が、家が、町が、空港が、あっという間に波に飲まれていく…渋滞で身動きのできない車、なんとか農道に逃げ込み波から逃れようとする車、行き場を失い右往左往する車、それらをただ静観することしかできない僕たち。一方、首都圏でも交通機関は全てストップし、帰宅難民たちが都内にあふれ出していた。

母と病気の姪は大丈夫だろうか?都内で仕事をする姉たちは?保育園にいるもう一人の姪と甥は?義兄たちは?心配は尽きなかったが、有線電話も携帯電話も通じず、連絡する手段がなかった。唯一通じていたインターネットでとりあえず母や姉たちにメールを送ると、夜になって姉たちから家族全員無事の連絡を伝えるメールが戻ってきた。姉たちはそれぞれ仕事場から自宅近くまで歩き、保育園で子供をピックアップしてから帰宅したと言う。母ともう一人の姪も姉の自宅にいたので無事だったそう。ほっと肩をなでおろした瞬間だった。

その翌日、仙台のいとこともメールで連絡が着いた。いとこも福島の親戚たちも、全員無事だった。

実は地震が起こった次の週、いとこに会うために仙台へのぶらり一人旅を計画していた。10年以上ぶりのいとことの再会を楽しみにしていたのだが、地震のためにやむなく旅行をキャンセルすることにした。

(続く)
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by dice_michigan | 2011-03-31 04:22 | ビザ・グリーンカード
3/7にデトロイトを出発。予想通り成田行きの飛行機はガラガラ。エコノミークラスだったが、非常席列で隣の席は空席だったので、窮屈に感じることなく悠々と帰国した。そこから空港バスと電車を乗り継いで地元埼玉の実家へ。両親とは9月以来、およそ半年振りの再会だった。

翌日朝、まずは早速浦和にある埼玉県警に出向き、鑑識課で犯罪経歴証明書の申請をする。なぜ証明書が必要なのかを聞かれたときに、一度提出して受理されているのに再度発行が必要な理由が不明確(いろいろ背景を説明したのだが、弁護士のアドバイスで、というだけでは不十分のようだった)という理由で、あやうく申請すらできない事態になりそうだったのだが、結局担当者のご好意で、とりあえず申請は進めておき、GC面接ではっきり再提出が必要、と言われたらそのエビデンスを県警に提出して証明書を受理。必要ない、と言われたら県警に電話連絡でキャンセル、という風に進めてもらうことになった。たかが証明書の発行とはいえ、法を犯す罪の有無に関わることだから、意外と厳しいもんだ。

その日の午後は、電車で東京の恵比寿へ移動して、東京ブリティッシュクリニックでの健康診断。あらかじめ持ってきた予防接種と抗体検査の記録をナースに渡し、病歴・服用薬などについての問診を受け、血液検査、X線レントゲン撮影と進む。その後はイギリス人らしき初老のドクターが簡単に触診を行い終了。予想していたことだが、あまりのあっけなさに拍子抜け。実は服用している薬のことや、乾燥肌やビーチでの虫刺されで荒れた肌のことをいろいろ調べられるんじゃないかと不安に思っていたのだが、それらは全く問題ではなかった。

ただ一つだけ引っかかってしまったのが、おたふく風邪の抗体検査結果。それ以外の麻疹・風疹・水痘の抗体検査結果は陽性・陰性の他にも計測された数値が記されていたのだが、おたふく風邪だけはただ「陽性」という結果しかなく、それだけでは不十分という医師の判断から、再度予防接種を受けることにした。抗体というものは、年々薄まってしまう(?)ものらしく、単に「陽性」という結果だけだと、またいずれは陰性レベルまで落ちてしまうこともありうるようだ。まぁ予防接種1本につきたかが7000円とかそんなもんだから、別にどうでもよいのだけど。何度打っても弊害はないようだし。

こうして無事に健康診断も終わり、追加料金を払って即日診断結果も発行してもらい、準備万端で大きなレントゲン写真と共に帰宅した。

(続く)
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by dice_michigan | 2011-03-31 04:21 | ビザ・グリーンカード
GCの面接が3/14に決まった。それを知ったのは2月のすでに下旬に差しかかっていたころだった。急いで会社に休暇の申請をして、日本往復の航空券を手配。ラッキーなことに、3月は閑散期であることに加え、デトロイト⇔羽田便就航キャンペーンとやらで飛行機代が往復で700ドル台という破格の安さ!交通の利便性や時間帯を考慮に入れた結果、行きは成田、帰りは羽田から帰ることに決めた。

東京でやらなければいけない健康診断の予約も入れるべくネットを調べていると、3つくらいある指定病院のうち、一番融通がききそうなのは東京ブリティッシュクリニックだと知る。国際電話でクリニックに予約を入れて、予め必要な予防接種の種類も聞いた。事前に打てるものはアメリカにいるうちに打ってしまうか、抗体検査で陽性であることを証明できるようにした(アメリカでやっておけば今入っている健康保険でカバーされるから)。

一つ気がかりだったのが、警察の犯罪経歴証明書。僕がこの書類をNVCに提出したのは2008年。通常この証明書は有効期限が1年なので、普通に考えるとすでに期限が切れていることになる。NVCからの面接案内レターには提出済みの書類・不足している書類のリストが書かれているのだが、この警察証明書に関しては「要件を満たすものを提出済み」となっているので、よっぽど再提出を求められることはないだろうとは思ったが、NVCと大使館の意見の食い違いで万が一面接で新しい証明書を要求されたらと思うと、一抹の不安が残った。

アメリカにある日本領事館を通じて警察証明を取り寄せようとすると2ヶ月はかかるので、面接には到底間に合わない。日本の地元の県警で申請しても、10営業日かかるとのこと(電話で地元の県警鑑識課に問い合わせたところ、1日2日は早めることはできるらしい)。僕が予定していた日本滞在は10日弱。結局弁護士からの勧めで、日本に帰ってすぐに地元の県警で申請の申し込みをし、万が一GC面接でなにか言われたら後追いで提出できるように準備をしておくことにした。

これで提出書類関係は大体目処が立ち、日本にいる間の旅行なども計画しつつ、出発の日を待った。

実は日本帰国直前に、兼ねてから計画していたメキシコへの3泊4日ビーチ旅行にも行き、プチ&プレバカンスを楽しんだのだった。
(続く)
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by dice_michigan | 2011-03-31 04:20 | ビザ・グリーンカード
前回の更新から2年以上の月日が経ってしまいましたが、ビザ・グリーンカードに関して動きがあったので、ここに記入しておきます。
長いです、覚悟して読んでください。

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■2007年
7月に自分の順番が来たものの、すぐにUnavailableになってしまい、それからまたずーっと待ちの状態が続いていた。ビザの発給枠は僕が申請しているカテゴリーに関して言うと年間4万件と限られていて、それ以上の発給はしないので、自分の順番が来ないとどうしても前に進めないのだ。毎年数に変動はあるものの、およそ15万人がこのカテゴリーのビザを待っているといわれている。結婚を通じてのビザなどは、このような発給枠はないのに…

■2008年
この年の4月に再び自分の順番が来て、4/18に警察証明やら戸籍・雇用証明などをNVC (National Visa Center)に提出。6/27に「Case Completed」という、「書類処理完了。もうあとは大使館で面接するだけ」のステータスになった(このステータスはNational Visa Centerに電話すると自動応答システムで教えてくれる)。この時点で、「もうすぐグリーンカードが取れるかも!」と期待していたのだが…

同じ年の7月からまたもやビザの発給枠がUnavailableになってしまって、それから待ち続けること数年…毎月DOS (Department of State)から発表されるVisa Bulletinで自分のPriority Date(PD)がCurrentになっているかどうかを確認する日々が続いた。

■2009年~2010年
2008年の11月から2009年の3月までの5ヶ月間、cut-off dateが2005/5/1で足踏みしていたときは、「あとちょっとなのにぃぃぃーーー(僕のPDは2005/5/27)」ともどかしい思いで一杯だったが、結局その後さらにRetrogress(cut-off dateが過去にさかのぼってしまうこと)してしまい、ただひたすら辛抱強く待つ以外に選択肢はなかったのだった。

何でcut-off dateが前に進んだり、後ろにさかのぼってしまったりするのかは、当初はかなり謎だった。普通に考えると、順番どおりに毎月一定数のビザが発給され、少しずつ前進すると思うからだ。

簡単に言ってしまうと、毎月の発給状況を見ながら、需要と供給を見比べてDOSがcut-off dateを決めるのだが、政府機関同士の連携があまりよろしくないらしく、把握し切れていなかったケースが大量に地方の移民局から報告されるとcut-off dateはさかのぼり、予想していたよりも発給数がさばかれていないという報告を受けるとcut-off dateは前に進む、という、結構行き当たりばったりのあてずっぽうなシステムなのだった。

また、1つの申請者に対して結婚したり子供が生まれたりして配偶者・扶養者の申請も付いてくると、ビザの発給数を当初の予想以上に増やしてしまい、日付が逆行する要因となっていたようだ。その逆に、申請者がレイオフされたり、祖国に戻ったりして申請が無効になると、日付は前に進む。もう少し政府間の伝達がコーディネートされていれば、「自分の番が来るのはあとX年位かなぁ」と予想もつくものであっただろうが、急にcut-off dateが数年さかのぼったり進んだりすると、いつ自分の番がくるのか、さっぱり分からなくなってくるのだ。

このもどかしさは経験した人でないとなかなか理解できないようだ。アメリカ人の友達からは、「Senatorに手紙を書いてみたら?」とか「移民局に直談判してみれば?」などとアドバイスをもらうのだが、移民弁護士に相談しても「そのようなことをしても助けにはなりません」の一点張り。「いつ頃GC取れそう?」と聞かれても「さぁ、運がよければ今年中かなぁ」と言い続けて数年の月日が経過した。

■2011年
とは言え、2010年の終わりごろから、ようやくcut-off dateが順調に進み始め、「あと4か月分進めば僕の番!」、「あと3か月分!!」、「あと2か月分!!!」と毎月期待がふくらみ続けていた。そして今月2011年2月に発表されたVisa Bulletinで、ついに自分のPDがCurrentになることが判明したのだ!

その途端、ダムの門が開かれたように事はトントン拍子で進み始めた。2/14付けのNVCからのレターで、僕のビザ面接が3/14に東京の大使館でスケジュールされたことを知ったのだった。

(続く)
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by dice_michigan | 2011-03-31 04:18 | ビザ・グリーンカード
前の投稿で「自分の順番が来た」と書いたが、7/2のDepartment of Stateの発表でそれが撤回されてしまった。

理由は、僕のような雇用によるグリーンカードの発行数が今年度の割り当て分に達したからだと…

これで少なくとも10月までは保留となってしまった。

ふざけんなコロス~。
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by dice_michigan | 2007-07-05 08:45 | ビザ・グリーンカード
去年の3月にI-140が承認されたものの、次のステップに進むまでの順番待ち状態だったのだが、先月晴れて自分の順番が来た!最悪4年くらい待たなければいけないと覚悟していたので、思ったより早い展開に肩をなでおろした。

でも、すぐに大使館でインタビューが受けられるわけではなくて、まだまだ面倒くさいペーパーワークが残っているみたい。はっきりとは分からないけど、下のようなことをしなければいけないようだ(プロセスがコロコロ変わるので、これが最新の情報なのか不確か)。

1.グリーンカードプロセス代$380を支払う(済)
2.National Visa CenterからPacket 3というグリーンカード申請の案内が来る
3.Packet 3に指定された書類を揃える手はずを整える(警察証明書とか、戸籍謄本とか…)
4.大使館からPacket 4なるインタビューの案内が来る
5.日本で健康診断を受けたあと、東京の大使館でインタビュー
6.仮承認後、アメリカ入国。数ヶ月後に正式なグリーンカードが郵送される

あとちょっと、と思っていたけど、なんだかまだ先は長そう…でも、少しずつ先に進んでいるのはうれしい!

話は変わるが、先週LAへ出張したときに知り合いになった日本人の女の子も、グリーンカード申請中で、僕とほぼ同じくらいの進み具合だということが分かった。お互いビザ・永住権取得の荒波に揉まれてきた同士、意気投合してしまった。日本で同じ時期にインタビューできるかな?
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by dice_michigan | 2007-07-02 06:06 | ビザ・グリーンカード
H1-bビザの有効期限が3年経って切れたので、更新のために日本に一時帰国してきた。3年前にビザを取得したときは4週間もかかったものが、今回は何と1週間足らずという、スピード取得となった。

前回と大きく異なる点は、アメリカ大使館での面接が必須になったこと(前回は旅行会社を通して郵送でやった)。自分でインターネットを使って各大使館・領事館の面接予約状況をチェックできるのだが、僕が行こうとしていた時期は東京の面接は混んでいたし、面接可能な曜日もうまく合わなかったので、今回は大阪領事館で面接することにした。夏の留学シーズンも過ぎていたので、面接は比較的空いていて、帰国予定だった2週間後の面接がラクラク予約できた。

必要な書類は日本帰国前に全て揃えた(用心過ぎるくらい完璧に)。同じ会社で同じく最近ビザを更新したばかりの人がいたので、彼にいろいろとアドバイスをもらって準備を進めることができた。申請書などは前回H1bを取得したときのものやグリーンカードの申請関係の書類を参考に、間違いや不備な点がないよう細心の注意をはらった。

必要書類の中で一番面倒だったのは、申請料の振込みだった。海外からの振込みや、クレジットカードでの支払いが不可能だったので、親に頼んで地元の銀行から振り込んでもらった。その領収書の原紙を面接当日に持参しなければいけなかったので親にアメリカの自宅まで郵送してもらったのだが、これが思いのほか時間がかかり(1週間以上)、日本帰国の一日前に届いてなんとかギリギリセーフだった。

面接2日前に飛行機でデトロイトから関空へ飛んだ(到着は面接の前日)。空の旅は至って快適で、初めて降り立った関空から大阪のホテルまでのアクセスもラクラクだった。泊まったホテルは領事館のすぐ近くにあり、値段もリーズナブルでとてもよかった(これも同僚からの情報があったおかげ)。ついたのが夜遅かったので外出などはせずに、コンビニでお弁当とビールを買って、ホテルの部屋でくつろいだ(日本帰国一日目ということもあり、コンビニに行けるだけでとてもうれしくなってしまったのだが…)。

心配性な性格から、書類を何度も何度も確認して、予約時間の2時間前(領事館開館の1時間前)にホテルをチェックアウト、ドトールコーヒーで時間をつぶした。開館時刻に領事館に行ったら、列もなく、特に面接予約時間に関係なく入館できるようだったので、さっそく中に入った。電気機器や飲食物など、持ってきてはいけないものは心得ていたので、セキュリティーはラクラク通過。3階の受付で書類を提出した。

だがここで問題が発生した。プリントして持参した申請用紙のバーコード部分の印刷がぼけていて、受付の機械でうまく読み取れないという事態になってしまったのだ。PDFの変換ミスが原因だったようだが、その時点ではもう後の祭り。受付の方の指示に従って、徒歩10分のFedEx Kinko'sへ行ってパソコンで情報を再入力、プリントアウトして、再び領事館に戻った。この時点ですでに僕の本来の予約時間を過ぎていたので、早めに行っておいて本当によかった。

再び受付で書類を提出。今回は問題なく処理された、と言いたかったが、受付の人が新人さんだったようで、窓の向こうで教育係の人とあーだこーだと話し合いながら、長い時間をかけて僕の書類を処理していた。「ここで処理にミスが起こったりしたら、ビザ取得にも支障がでてしまうかも」なんて不吉な不安が頭をよぎり、気が気ではなかったが、なんとかそれも無事終了。2階の面接場所へ移動した。

面接のフロアには10人ほどの人たちが並んでいたが、僕の番はすぐにきて、面接自体は30秒で終了。「アメリカでどんな仕事をするの?」といった簡単な質問から始まったが、「グリーンカードの申請はしているの?」という質問でしばし戸惑ってしまった。僕が申請しているビザは非移民ビザといって、一時的にアメリカに滞在する人用のもの。素直に「グリーンカードの申請してます」と言っちゃうと、永住の意思を示すことになって、ビザが却下されたりしないか、不安が頭をよぎったのだ。

でも、嘘をついたらますますややこしいことになると思い、正直に「はい、してます」とちょっと焦りながら答えたら、面接官が「オッケー。just checking(だから心配しなくていいのよ)」と言ってくれたのでほっと肩をなでおろした。「書類をざっと見ましたが、問題ありません。あなたの申請を承認します」とのコメントに、万々歳の気分だった。

それから約3日後には、自宅にビザ付きのパスポートが返送されてきた。出張を終えて、そのビザでアメリカ入国した。これであともう3年はアメリカを自由に出入りすることができる。

ちなみにグリーンカードの方はまだ自分の面接ができる順番待ちの状態で、今現在約2年半くらい待たなければならないようだ(実際にはもっと早まると思うけど)。
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by dice_michigan | 2006-10-22 14:01 | ビザ・グリーンカード