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ミシガン州に住んで丸8年。5年前にデトロイト市内に引っ越しました。デトロイトのことや、自分のこと、大好きなマライアのことなどについてのブログです。(photo by nasa)


by dice_michigan
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午後4時過ぎにデトロイトへ到着。デトロイトでは荷物がすぐに出てきたので、カーブサイドで待っていたD様にピックアップしてもらう。

「時差ぼけで眠いなー。でも家帰ったら隣のブリュアリにでも行こうかー」などとD様と話をしながら帰宅。家のドアの前には「おかえりDice!」と書かれた隣人からのメッセージが。「わー、クレアとフランシスからこんなメッセージが書かれてるよー」と先に家に入ったD様に伝えるも、D様は無視してベッドルームへ。「え、もうベッドイン?気が早いわね!」と思い後をついていくと…

「サプラ~イズ!!」

友達5人余りがベッドルームに隠れて待ち構えていてくれたのだった。よくよく見るとダイニングテーブルに緑の風船やらスパンコールやらがちりばめられている(ちょうどアメリカではSt. Patrick's Dayという緑色がテーマのお祭りの直後だったため、この種の飾り物はたくさんあったのだろう)。名づけてグリーンパーティ。うれしさに眠気が一気に吹き飛んでしまった。

乾杯の後、「I'm Greened!!(グリーンカードもらったぜぃ!)」とにっこり記念写真を撮った後、飲んで飲んで、飲んで飲んで、飲みまくった。後からも友達が何人も駆けつけてくれ、日本での思い出話などに花が咲いた。

そして、いい気持ちのパーティ主役から全員にキッスのお礼を差し上げた後、パーティはお開きとなったのだった。

その後、約1週間後に新しいソーシャルセキュリティーカードが届いた。これには「INS(今で言うDepartment of Homeland Security)の許可なしには労働不可」という文言が書かれていない。つまり移民局の制限なく仕事に就けるという証なのだ。

それから、正式なグリーンカードは、入国から約1ヵ月後に自宅に郵送されてくる予定。これはまだ待っている状態だ。それまでは、パスポートに張られた1年有効のテンポラリーのビザで海外を行き来できる。

こうして2004年の中盤から始まった僕のグリーンカード申請は、およそ7年経った2011年の春に終わりを迎えたのだった。
# by dice_michigan | 2011-03-31 04:26 | ビザ・グリーンカード
その週の後半になって、予定通り永住ビザ付きのパスポートが大使館から実家に送られてきた。これで安心してアメリカに帰れる!

仙台旅行がキャンセルになったので、新宿に2泊してからアメリカに帰ることにした。両親を後にして一人で遊びに行くのは少し後ろ髪が引かれたが、両親自身も至って普通の生活を送れていたので大丈夫と判断した。

初日の夜は、幼馴染みのあきお君夫妻と食事。彼らも電車の規制運転の影響を受けていたが、帰り道の途中で僕と会ってくれることになったのだ。入った西新宿の居酒屋はサラリーマンたちでそれなりに混んでいて、久しぶりに煙い居酒屋の雰囲気を体験した(ゲホゲホ)。ここでも節電のため営業時間を切り上げているとのことで、10時過ぎには店を出た。

泊まっているホテルの最上階ラウンジにでも行ってみようかと思ったが、なんと地震のため上層階のお店は全て閉店していた。やっぱりこんな時期に来る客もいないのだろう。そういえばこのホテルは普段は外国人宿泊客が多いのだが、今回はアジア系の人以外、白人や黒人は一人として見かけなかったのも、ある意味異様だった。しかたなくホテルロビー近くのバーで飲んでから、あきお君たちは自宅へと帰った。

翌日は別のお友達とお昼を食べて、夜は最後の「二丁目ナイト」を楽しんだ。いくつものバーをはしごして、途中からは中学の同級生マツコも合流して、二人で語ったり、踊ったりしながら夜更けまで飲み続けた。

そこからタクシーでホテルに戻ったのが午前3時。4時半にリムジンバスが来ることになっていたので、ちょっとだけ横になろうとしたのが間違いだった。ハッと目が覚めると時間は既に朝の6時を回っていた。羽田からの飛行機の出発時間は6時50分。どう考えても間に合わない!生まれて初めて国際線を乗り過ごしてしまった。

仕方ないので、デルタ航空に電話をして、「すみません、間に合わなくなってしまって…(寝過ごして、とは言わなかった)」と事情を説明すると、「はい、では翌日の便になりますね」との返事。うぇ~、もう1日待ってらんないよー、と思い、「成田発とかで今日飛べませんか?」と聞いてみると、たまたま午後のミネアポリス経由の便が空いていたとのこと。早速ブッキングしてもらった。

ホテルのベルデスクに電話を入れ、少し早めに空港に向かうことにした。空港では日本脱出組でもっと殺戮とした風景を想像していたのだが、着いてみるとまぁいつもの2倍くらいの列の長さかな、といった程度(とは言ってもデルタはいつも混んでいるので、この日はカウンターエリアを半周するんじゃないかというくらい人が並んでいた)。プライオリティメンバーステータスのおかげでチェックインはスムーズに行き、軽く食事をしてから出国手続きを終え、デルタのスカイラウンジでビールを飲みながら出発を待った。

飛行機は混み合っているようだったので、インボランタリーアップグレードとかないかなー、と期待したが(乗り遅れた分際で図々しい?)、結局エコノミークラスで、でも希望していた最後尾の2列シート窓側に座れた。離陸後、千葉沿岸の太平洋を見ると、錯覚なのかどうか分からないが白っぽい(?)がれきが多数漂流しているようにも見えた。あれはただの波だったのかな?

さて、約11時間後に飛行機は無事ミネアポリス空港に到着。入国審査場では、予想通り一番奥に「New Immigrants」のレーンがあったので、そこに並ぶ。その列には前に一人、後ろに一家族いるだけだ。前の人は案の定別の部屋へ連れて行かれて、僕の番が来た。

ブースで書類を提出し、審査官がビリビリと袋を破いて書類をみること数十秒。

「会社名は?」
「永住する意志がありますね?」

質問はこれだけだったと思う。その場で人差し指の指紋を取り、書類にサインをして、永住ビザにスタンプをもらい、終了。「あれ?別部屋に連れて行かれるんじゃないの?」と一瞬思ったが、「You are all set.」と言われたので、ちょっと拍子抜けしながらもバゲージクレームで荷物を受け取り税関へ。毛糸やら100円均一で買ったお土産やらいろいろとスーツケースに詰め込んでいたので、ちょっぴりビクビクだったのだが、税関はノーチェックで通過。荷物を再び預け、ミネアポリスからデトロイトへ飛んだ。

(続く)
# by dice_michigan | 2011-03-31 04:25 | ビザ・グリーンカード
週末は友達と会う約束を全てキャンセルし、日曜日、姉夫婦の住む東京の神楽坂へ向かった。地震から2日経ったこの日は、電車も平常どおりとまではいかないが、50%くらいは復旧していた。私鉄、JR、地下鉄を乗り継いで、夕方になる頃公園で遊ぶ姉夫婦と甥と合流。夕暮れ時に滑り台やブランコで楽しそうに遊ぶ甥や他の子供たちを見て、癒される感情を覚えた。その日の夜は神楽坂のしゃぶしゃぶ屋で国産牛と豚のしゃぶしゃぶをご馳走になり、姉宅で甥とアンパンマンを見てから床についた。

翌日の月曜日、交通機関の乱れを予想して、面接の2時間前に姉宅を出発。地下鉄に乗ろうとするも、南北線がものすごい混雑で断念。駅4個分を歩く決意をした(今思えば道もすいていたのでタクシーを使ってもよかったのだが、その時は自分の足で歩いていくのが一番確実に思えた)。飯田橋から外堀通りをテクテクとあるくこと1時間あまり、多少迷いながらもなんとか溜池山王のアメリカ大使館に到着した。

大使館は思っていた以上にガラガラ。9時半の面接予約だったが9時に到着して、受付番号は11番。僕よりも前に来ていた人たちが順番に窓口に呼ばれ、書類チェック→指紋採取→最終面接の順に手続きを進めていた。今日は永住権面接のみの日のようで、来ていた人たちのほとんどは国際結婚組。キレイな日本人女性とどんくさそうなアメリカ人男性(失礼?)カップルが多い。日本人女性たちはここまで来るのに書類の準備や手続きなどできっと相当の苦労をしてきたのだろう。面持ちもどことなく不安げで緊張感が漂っていた。それに対してアメリカ人夫たちは、いたってリラックスムードで、スウェットシャツ姿でガムを噛んだりコーラを飲んだり、「あー、めんどくせー」感をかもし出しまくり。ある窓口で、手続きがまだ終わっていないのに席に戻ろうとした旦那を掴まえて、「てめーぶっ殺すぞ」視線を送っていた日本人女性に心から同情してしまった。移民手続きの苦労は、たとえ人生の伴侶であろうとなかなか理解してもらえないものなのだ。

さて、30分ほど待った頃、僕の番号がアナウンスされた。書類のチェックは日本人スタッフが日本語で対応。特に書類に不備はなく、警察証明についても、発行された年以降に日本に住んだことはない旨を伝えると問題なしとのこと。ここでレントゲン写真についての扱いの指示があった(スーツケースに入れてアメリカに持ち帰ること。手荷物ではなくてもよい)。

続いて指紋採取。フィリピン系?のおばさんの指示の元、右手4本指、親指、左手4本指、親指とスキャナーでスキャンしてもらう。これは入国審査場のモノと似ていた。

最後の最終面接では、アジア系のお兄ちゃんが英語で3-4つ仕事の内容について質問をした後、めでたく面接は合格。書類にサインをして、今後の流れの説明が書かれたプリントをもらい、大使館を後にした。この時すでに11時頃だった。

実は大使館にいる間も余震が何度も起こっていて、震度3くらいのものもあったりした。その度に待合室で流れていたTVのニュースをチェックしつつ、「こんな時に大使館がいきなりクローズとかしたら嫌だな」とビクビクしていたのだが、幸い大使館の手続きは中断することなく淡々と進められていった。ちなみに前の週の金曜日は大地震の後さすがに大使館もクローズになったようだ。その時にビザ手続きをしていた人たちはどうなったんだろうか…

それはさておき、無事にビザ面接が終わり、晴れ晴れした気持ちで姉宅へ帰宅(帰りの地下鉄はガラガラだった)。その後新宿の高層ビルの眺めのよいレストランで、一人祝杯&ランチを楽しんだのだった(こんなご時世に高い高層ビルに上がる人は珍しいらしく、レストランは閑古鳥が鳴いていた…)。その時は、地震のような揺れを感じても、「風だ、風」と思うことにして心配しないことにした。

ランチの後は、新宿でお買い物。ユニクロで下着、岡田屋で毛糸(珍しいものがたくさんあって楽しかった!)、伊勢丹はウィンドーショッピングのみ、そして丸井メンズ館では衣類を大量に買い占め。平日の昼間で店は空いていて、節電のため普段より早い時間にしまってしまったが、僕にとっては十分買い物を楽しめた。そして夕方には二丁目でビール休憩。バーのママ(♂)と地震の話をしたりしながらたそがれていたが、お友達のルルちゃん(アイルランド人)がすぐ近くの新宿3丁目で飲んでいることを知って、そちらに合流することにした。

そこではルルちゃんとルルちゃんのお友達(みんな外国人)数人が飲んでいたが、みんな原発の放射能漏れを心配していて、祖国や原発から離れた地方に移ることを考えていた。日本在住歴が長ければ長いほど、「避難」願望は弱くなるような印象を受けたが、特にヨーロッパから来た人たちは、チェルノブイリの影響をもろに受けている人たちも多く、祖国の家族たちも相当心配しているようだった。「実は今こうして外で飲んでることも、祖国の家族には内緒なの」と言っていたイタリア人女性は、その週のうちにイタリアに帰国することが決まっていた。

心配や不安はあったが、お酒を飲んで陽気になり、「放射能で髪がオレンジ色になっちゃったらどうしよー」とか冗談交じりに笑い合ったりして、楽しい一時を過ごすことができた。その後タクシーで姉宅に戻り、もう1泊してから翌日埼玉の実家に戻った。

(続く)
# by dice_michigan | 2011-03-31 04:24 | ビザ・グリーンカード
それから月曜日の面接までの数日間、埼玉や都内にいる友達や姉家族と会ったりしてまったり過ごす予定だったが、3/11の地震のおかげで予定が大幅に狂ってしまった。

本当は地震があった日の昼間、隣駅の図書館に行って勉強でもしようかと思っていたのだが、面倒くさくなって(笑)家でゴロゴロすることに。母は姉の姪っ子が熱を出したとのことで、都内へベビーシッターに出かけていた。定年生活の父と二人で近くのラーメン屋で昼飯を食べ、家に帰って時差ぼけ解消のお昼寝タイムに突入したのだが、地震で家が揺れ始めるとすぐに目が覚めた。

始めは小さかった揺れも、徐々に強くなっていき、本棚から物がバッサバッサと落ち出し、部屋のぶらさがり型蛍光灯もブンブン横殴りに揺れた。台所からもガラスのボトル類が落ちて割れる音が聞こえた。ただただ呆然と布団を抱きしめたまま、1分近く地震がおさまるまで待った。揺れがおさまった後は、ガクガクする足を押さえつつ、床の間の父の様子を伺いに行くと、父も呆気に取られている様子。とりあえずお互いの無事を確認して、TVのニュースを見始めた頃…

「ピンポーン」
「XXさーん!いますかー?」とご近所さんの声。
「安否確認でもしているのか?」と思い出て行くと、「XXさんちの塀が倒れちゃってるよー」と。

外に出ると、うちや近所の御影石の塀が見事に道路に向かって倒れている(鉄筋入りの塀などは大丈夫だったようだ)。見覚えのあるご近所のおじさんおばさん全員が外に出ていて、倒れた石塀の後片付けを手伝ってくれた。

「あらー、Diceちゃん久しぶりねー。大きくなってー」「いえー、ちょうど休みで帰省してましてー」などと世間話をしながらも、少し前に起きた地震にみんなビクビクの様子。片付けている間も余震が何度も襲い、そのたびにおばさん達が不安なため息をついた。おまけにこんな時に限ってどんより嵐でも来そうな空模様。「天災」と呼ぶにふさわしい気味の悪い雰囲気だった。とりあえず邪魔にならない程度に石を側道によけて、家の中へ戻った。

その後のTVでみる東北地方のおぞましい津波の生中継は、この世の末を思わせるものだった。車が、家が、町が、空港が、あっという間に波に飲まれていく…渋滞で身動きのできない車、なんとか農道に逃げ込み波から逃れようとする車、行き場を失い右往左往する車、それらをただ静観することしかできない僕たち。一方、首都圏でも交通機関は全てストップし、帰宅難民たちが都内にあふれ出していた。

母と病気の姪は大丈夫だろうか?都内で仕事をする姉たちは?保育園にいるもう一人の姪と甥は?義兄たちは?心配は尽きなかったが、有線電話も携帯電話も通じず、連絡する手段がなかった。唯一通じていたインターネットでとりあえず母や姉たちにメールを送ると、夜になって姉たちから家族全員無事の連絡を伝えるメールが戻ってきた。姉たちはそれぞれ仕事場から自宅近くまで歩き、保育園で子供をピックアップしてから帰宅したと言う。母ともう一人の姪も姉の自宅にいたので無事だったそう。ほっと肩をなでおろした瞬間だった。

その翌日、仙台のいとこともメールで連絡が着いた。いとこも福島の親戚たちも、全員無事だった。

実は地震が起こった次の週、いとこに会うために仙台へのぶらり一人旅を計画していた。10年以上ぶりのいとことの再会を楽しみにしていたのだが、地震のためにやむなく旅行をキャンセルすることにした。

(続く)
# by dice_michigan | 2011-03-31 04:22 | ビザ・グリーンカード
3/7にデトロイトを出発。予想通り成田行きの飛行機はガラガラ。エコノミークラスだったが、非常席列で隣の席は空席だったので、窮屈に感じることなく悠々と帰国した。そこから空港バスと電車を乗り継いで地元埼玉の実家へ。両親とは9月以来、およそ半年振りの再会だった。

翌日朝、まずは早速浦和にある埼玉県警に出向き、鑑識課で犯罪経歴証明書の申請をする。なぜ証明書が必要なのかを聞かれたときに、一度提出して受理されているのに再度発行が必要な理由が不明確(いろいろ背景を説明したのだが、弁護士のアドバイスで、というだけでは不十分のようだった)という理由で、あやうく申請すらできない事態になりそうだったのだが、結局担当者のご好意で、とりあえず申請は進めておき、GC面接ではっきり再提出が必要、と言われたらそのエビデンスを県警に提出して証明書を受理。必要ない、と言われたら県警に電話連絡でキャンセル、という風に進めてもらうことになった。たかが証明書の発行とはいえ、法を犯す罪の有無に関わることだから、意外と厳しいもんだ。

その日の午後は、電車で東京の恵比寿へ移動して、東京ブリティッシュクリニックでの健康診断。あらかじめ持ってきた予防接種と抗体検査の記録をナースに渡し、病歴・服用薬などについての問診を受け、血液検査、X線レントゲン撮影と進む。その後はイギリス人らしき初老のドクターが簡単に触診を行い終了。予想していたことだが、あまりのあっけなさに拍子抜け。実は服用している薬のことや、乾燥肌やビーチでの虫刺されで荒れた肌のことをいろいろ調べられるんじゃないかと不安に思っていたのだが、それらは全く問題ではなかった。

ただ一つだけ引っかかってしまったのが、おたふく風邪の抗体検査結果。それ以外の麻疹・風疹・水痘の抗体検査結果は陽性・陰性の他にも計測された数値が記されていたのだが、おたふく風邪だけはただ「陽性」という結果しかなく、それだけでは不十分という医師の判断から、再度予防接種を受けることにした。抗体というものは、年々薄まってしまう(?)ものらしく、単に「陽性」という結果だけだと、またいずれは陰性レベルまで落ちてしまうこともありうるようだ。まぁ予防接種1本につきたかが7000円とかそんなもんだから、別にどうでもよいのだけど。何度打っても弊害はないようだし。

こうして無事に健康診断も終わり、追加料金を払って即日診断結果も発行してもらい、準備万端で大きなレントゲン写真と共に帰宅した。

(続く)
# by dice_michigan | 2011-03-31 04:21 | ビザ・グリーンカード